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「好き」の不条理によって女子高校生が変人と交際するオンライン小説です。

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第16話 なにもなかった。

  この作品ではデカダンスを次のように説明しています。「人間的なるものから崩れ落ちることだ。落ちるほどに、我々はヒューマンなる度合いを減じてゆく。そしてその分、失った人間性を生命のない物体や抽象的な理論に付与するのさ」そしてそのとおり作品では実際に人間が生命のない物体に侵食されていく様が描かれています。まず物に対する人間の見方として、主人公の一人が物に対して苦手意識を抱いています。それとは対照的に物を好きな人がいて、さらにフェチシズム、つまるところ物的に見立ててそれを愛することに囚われた人間が出てくるんです。エピソードとしては、形成手術、男の胸につめもの、子どもたちによって身につけていた人工物を解体されてゆく女……この物語の中心ともいえそうなV.なる女に関する情報は時系列もぐでんぐでんに並べられていて、しかもそれぞれ関係性があるようでいて結びつけようとすると矛盾が生じて結びつかない複雑さの中にあり、まとまらず収束できない以上、情報はただひたすらに増えてゆく。一.情報が増える/人間性が減じる 二.情報量の増大によってあらゆることが複雑になってゆく/失った人間性が生命のない物体や抽象的な理論、つまりは単純なものに転じる という対比関係が見えてくるような気もするし、そうやって虚実が入り混じった状態こそが作中にもある「連続性だとか因果関係だとか「理由」ある人間味たっぷりの歴史」——明快な作り話、分かりやすい物語になることを逃れているわけです。これをつなげると人間的なるものとは歴史……分かりやすい物語を作り上げることであり、本作は生命のない物体に蝕まれる人間らやエピソードについて抽象的な理論を用いて連続性や因果関係にとらわれずに並べることで人間的で分かりやすい物語から転じたものを書こうとしているのではないでしょうか。「人生とはいくつもの人格が次々と脱却されゆく過程であるとすれば、いかなる弁明の書も即座に正当化できる。」「書くという行為そのものが新たなる脱却であり、さらに一人の「登場人物」を過去に付け加える行いなのだ。」の人生や人格について同じように先ほどの話を適用させれば「書くという行為そのもの」が分かりやすい物語を新たに脱却してゆくのであり、その分かりやすい物語が脱却されてゆく過程こそが本作であるという構成のメタフィクション小説になる。おれはそう解釈しています。これを二十五歳の若さで出版したトマス・ピンチョンは本当に優れた作家だと思います。おれも彼の年齢になるまでにこのような素晴らしい構成の作品を完成させたいです。
「みたいなことを書こうとしたけど、原稿用紙が足りなかったんです」
  移動教室のためにがやがやとみなが席を立つ中、小畑くんは教壇に頬杖をついているハゲ崎ハゲ谷のハゲ頭をじりじりと見下ろしていた。
「あー、あのな、小畑。足りなくて書けなかったからといってその情熱を『あらゆるものが増え続ける中で、ただ一つ変わらないプロフェインのホワッが好きです。』の一文で済ますのは正直どうかと思うゾ」
「書き足りないぐらいなら、むしろ書かないほうがいいんじゃないかって思うんですが……」
  ぼそぼそと言葉を続けようとした小畑くんに対し、ハゲ頭が教壇の椅子から立ち上がってぐわっと目を見開いた。
「おまえの『思うんですが……』など知るかーッ! とにかくこれを感想文として認めん! 書き直してこい! というか書き足してこい!」
 
「そろそろ感想文ぐらいまともに書けるようになれよ。ああいうのは決まった構成があるんだから」
  教室に戻る途中で、並んで歩いている二人を見かけた。なんとなく小畑くんの隣につくと軽い会釈をされる。東間くんもこちらに視線を向けたが、すぐに逸らされる。むしろ私の方が先に逸らしたのかもしれなかった。わずかに俯いて小畑くんが口を開く。
「わかるけど、おれたちに求められているのは書評じゃなくて感想文なのに、なんで定型を気にしなきゃいけないんだろう。推薦図書があるならともかく、好きな本を読んで書けと言われたなら、好きです、以外の感想なんて嘘っぱちじゃないか」
「相手に己の主張をわかってもらうためには自分の意図やその筋道を的確に言語化する必要があるし、ここで本当に求められているのは感想文ではなくて高校生として順当かつ考えて組み立てられた感想文を書いてほしいという宿題の出題意図を察することだろ」
  わかるけど、と小畑くんは再びつぶやいてがっくりと肩を落とす。今更ながら背の高い人だなと思いつつ痛くなった首をぐにぐにひねりながら、つぶやく。
「好きの理由を挙げて説明する必要性があるとしたら、好きは理由を挙げて説明できるものなんだね」
「そりゃ、それは、そうだろ」
  嘘っぱち、という言葉がまだ耳のそばをくすぐっている。
「条件に合致するなら、好きは代替できるのかな」
 
  あたたかなジュース缶を両手でぎゅっぎゅっと握る。
  食堂から出ようとしたところで名前を呼ばれた。声の方向を見やれば、グラウンドから撤収してきたらしい風間くんと小鳥くんがいた。その後ろには長身でほっそりとした男子生徒がぜいぜいと続いている。外履きのまま、三人は食堂に接続する渡り廊下によそよそと近づいてきた。私もそれに合わせて渡り廊下に出ると、風間くんと小鳥くんがひょいと片手をあげる。
「ハロローン、富田のオナナジさん!」
「ナジさん!」
  ハイタッチを求められたので、風間くん、小鳥くん、謎の男子生徒の順でハイタッチをする。ぱん、ぱん、ぱごん。ああ、知らない人にだけ強くやりすぎた。
「こいつのことご存知ない? 十市一歩。十の市でといちで、一歩と書いてはじめだぜ! 十から歩まで覚えてくれよな!」
「といちはいち!」
  近藤さん案件だ、と思っていたところで十市くんが自身のぼさっとした髪を撫でつけた。
「本山さん、だよね。近藤莉果さんと同じクラスの」
  やっぱり近藤さん案件だ、とこくこく頷く。それを見た十市くんは自然な調子で姿勢を正して、こほんこほんと咳払いをした。
「コンピューター部で部長を務めている十市だ。近藤さんから何か話は聞いていないかな」
「ええと、そうだね。ガチな人だって聞いたことはあるよ」
  コンピューター部では検定試験もコンテストもかなり力を入れて取り組んでいる——近藤さんがそう話していたことを思い出すそばで、ひそひそとする風間くんと小鳥くん。
「ガチ? ガチホモ?」
「団体がうるさいから安直な発想は控えるべきだと思うね。ガチのホモでもうガチガチかもしれない」
「どこがガチガチになるんだぜ?」
「もうっ、言わせんなよ恥ずかしいっ……チン——」
  十市くんは小鳥くんの顔面に手を置くと小鳥くんはぴしっと固まってしまった。そのまま十市くんはこちらをまっすぐと見る。
「ガチってのは部活のことかな。顧問の指導と部員たちが優秀でね。それぞれ結果を出すものだからみな対抗意識を持って熱心に頑張っているよ。そういった意味ではガチなのかもしれないが、どこの部活でもそんなものではないかと。ところで近藤さんは他に何か言っていなかったかな」
「んー。私は特に聞いてないよ」
  さいですか、と十市くんは眉を下げて掴んでいた小鳥くんの顔からゆるゆると手を離す。と同時に小鳥くんがすました顔で口を開いた。
「ポ!」
「説明しよう! 十市は近藤さんが気になるさんなのだあ!」
  そうなの? と問う前に、十市くんが「貴様」とおそろしく低い声をあげた。風間くんは気まずそうに十市くんから視線をそらしたあと、しゅんとしながら。
「でもクソインテリクソ意識高い系クソ眼鏡だから相手にされてねーんですよ」
「おい、風間。いいかげんにしろよ」
「四十度ぐらいでオッケー?」
「僕は四十二度だと思う」
「じゃ私は間をとって四十一度で」
「風呂を沸かすんじゃない!」
  へそで茶を沸かすような会話を繰り広げたところで、十市くんが風間くんと小鳥くんの背中に腕を回して一転、にこやかな表情を浮かべた。
「この二人の言ったことは気にしないでくれ」
「うん」
「痛い! 痛い! 背中ちゅねられてる。痛い!」
「ちゅね、ちゅね!」
「この二人の言ったことは気にしないでくれ」
「うん」
  でも十市くんが近藤さんについて尋ねてきたことについては、近藤さんに尋ねてみよう。
 
  空いていた席を借りて、その後ろに声をかければ、近藤さんはハワハワと慌ててフェルトペンのキャップを閉めた。ペン先が離れた使い捨てかいろには、シンプルな線で無表情のうさぎが数羽ほど描かれている。首をつったり、己の頭に拳銃をつきつけたり。多種多様な自殺行為を披露しているうさぎたちから見える、アンディーでライリーな近藤さんの闇は深い。
  おそるおそる十市くんのことを切り出せば、近藤さんは眉間に軽くシワをよせ首を何度も捻った。
「十市君に何か用件があったとかはないなー。私が忘れてるだけかもしんないけどね! 十市君、マメだからさ」
  その日にあった出来事や重要そうな会話は全部メモってソフトウェアで管理しているんだって、と補足をされて感嘆する。風間くんと小鳥くんとの会話は一つも記録されてないだろうな。
「すごいよねー。それって未来を見据えた上で一日一日にあったことを大事なものだとして過ごしてるってことだからさ。同学年なのに意識がこんなにも違うんだって畏れ多いなーって。見習おうったって、だれもがそんなことできるわけないもんね。しかも決して独りよがりなんかじゃなくて、人とのつながりもすごく大切にしているし、細身でメガネの受けっぽい美形だからカップリングが捗るし……」
  人脈の広さからうまれる意外な相手がまたそそるんだよおちゃらけた風間君と十市君の組み合わせが今の旬だね——十市くん、諦めよう。
 
  講堂から自教室に向かってぶるぶる震えながら廊下を歩いていたところで、放送室の重そうな扉がぎぎぎと開いた。見覚えのある顔と出会って、私たちは少し歩いたのちに足を止める。小柄な二人はばたばたと近づいきて、ぴたっと立ち止まり、その場で頭をぺこぺこと下げた。
「前はどうもー。先輩方にご協力いただいて、すごく助かりましたよー。ありがとうざいまーす」
「みなさん美男美女で素晴らしいって先輩も感心していたのです」
  形式的なお世辞にあははだよねアタシしゃ一等賞だよじゃ二等賞それなら三等賞と返す女子三人に対し、後藤くん。
「ふぇっ、いひょっ、いや、べつに? なんか役立つならそれで幸いっつーか。もし何か困ったことがあったら、ま、まあ、また協力してやってもいいし」
  くねくねしていた。
  ありがとうございますお気持ちはたいへん嬉しいですしかし今の所は大丈夫なので失礼するのですと早口で述べて、添々木さんと都志美さんはすたすたと放送室へと戻ってゆく。後藤くんはその背を見送ったのち、うっとりと声をあげた。
「ガチやべえわ、これはアレじゃね。フラグ立ってるやつじゃないっすか」
  有紗の顔がどんどんと険しくなるのに気づかないまま、後藤くんはぺらぺらと舌を動かす。
「というかあの二人、声むちゃくちゃ可愛いんだけど。喉からマイナスイオンが出てたわ……アニメ声っつーか……」
「アニオタが」
  吐き捨てるような有紗の声音に、後藤くんが背筋をぴんと立てる。ナミちゃんが後藤くんをかばうようにして、その間に立った。
「有紗ちゃん、落ち着いてー。後藤くんはただ褒められ慣れてないんだと思うよ〜」
「そんなの知っとるわ! 後藤なんてだれが褒めるか! つーか今時マイナスイオンとかアホか! 田代もバカにしとったわ!」
「めちょめちょ傷つくわ」
 
  秋永くんと神園さんから箒を受け取って掃除道具入れに収納する。ばたん、と閉めて振り返ったときまだ二人が立っていた。何か熱心に話し合っているらしい。そろりと二人と掃除道具の間から一抜けしようとしたところで、秋永くんがこちらを見た。
「本山的に男と女で友達として遊びに行くのってどうなの?」
  ヘディングのしすぎで頭が……口をスライディングしそうになったところで、息を整えて答える。
「十分にありうることだと思うけど、どうなのってどういう意味?」
「神園が男友達と出かけた時、それを見かけた女子高の友達に『紫、彼氏できたなら言ってよおぉぉ。え〜〜〜っ、付き合ってないのお!? 共学ってこわいにゃー。あの清楚の極みである紫までビッチと化すなんて』と言われたらしい」
  さらりと裏声で爽やかに答える秋永くんと、困り顔を浮かべた神園さんを交互に見やる。二人の間にどのようなやりとりがあったのか、想像しておののく。こわいにゃー。
「中学のときからの友達で、本当になんでもないんだけどね……そういう風に見られると、その友達にも悪いなあって」
「気にすんなよ。男は男女の友情なんて一ミリも信じてないから」
「秋永くん、たぶんこれはそういう問題じゃないと思うよ」
  そもそもこの人は友情を信じているのだろうか。ふと風間くんの顔が思い浮かび、なぜだか顔を紅くして鼻の下を伸ばしていたので、ぶんぶんと首を横に振って想像上の風間くんを追い払う。変態は他人の心の中でも変態のままだ。
「女子高の人って男子がちょっと遠い存在に思えるんじゃないかな。気になるの想いだけがつのって、でもそれを発散できないから、リラックスして男友達と話している神園さんを見てびっくりしたのかもしれない。そう、重い意味ではないと思うよ」
  ありがとう、と目をきらきらとさせて神園さんが私の手をとる。あまりのやさしいやわらかさにぎゅんっときたところで、畳み掛けるようににぱっと笑う神園さん。
「本山さん、すごい!」
「ええ、すごいって、何が?」
「だって本山さん。人が欲しがっている言葉を的確に与えられるんだもの」
  そんなことないよと答える。秋永くんの視線を躱す。隣のクラスがまだ机を引きずって運んでいる。廊下でだれかとだれかが騒いでいる。神園さんがまた話をしはじめる。クリーナーの音。たくさんの足音と男子たちの笑い声。湿る私のひそかなため息。
  私なんてものはどこにもいないみたいだ。
 
「早生まれなのにフツーにスポーツやれてるって、冷静に考えるとすごいよねん。運動ができる人ってだいたい遅生まれじゃなかった?」
「四月二日と四月一日うまれじゃ丸一年、違うもんね。でもまあ、元子は努力家だから」
  自分だけ座っているのもなんだし。立ち上がろうとしたところで、富田くんは手袋をはめた手でぽんぽんと私の肩を叩いた。
「ちょっと早いかもしれないけど、ミユちゃんは何をあげる予定なの? 被らないようにするかさ」
「今のところはスポーツタオルかな。暇があればお菓子ぐらいは増えるかもしれないけど」
「ならよかった! 俺はサングラスにしようと思っててさ!」
  時間ができたら一緒に買いに行こうと約束をして、別れる。
  ぐるぐるに巻いたマフラーの先を弾ませるように去るその背を見送りながら、しみじみと思う——うら若き現役女子高校生に対するプレゼントがスポーツタオルとサングラスってどうなの?
 
「おまえさ、富田と付き合ってんの」
  教室に人が残ってわいわいと騒いでいる日もあれば、その喧騒が嘘かのようにがらりとだれもいなくなって静かになる日がある。今日、偶然にみなが忙しかったのだろうか。それとも忙しくなかったのに、今日は教室に残る気がなかったのだろうか。
  東間くんはどうなんだろうと、演習問題(1)を解きながらに考える。
「ただの幼なじみだよ」
「ふーん。ただの幼馴染と休日にプレゼントを買いに行くのか」
  心底どうでもよさそうな声音をバックグラウンドに、間違えて記入してしまったところを消しゴムでこする。
「東間くんも男女の友情は認めない系?」
「意味のわからない括り方をするな……男はだいたいそういうものだろ」
「東間くんのエッチ」
  机の足をガンと蹴られる。もはや懐かしくさえ思えてくる。何ヶ月前のことも先週のことも一昨日のことも昨日のことも。
「これはオレの問題じゃない」
「そうだね。彼女とか彼氏とか正直いって面倒臭いよね」
  消しゴムを置いてすらすらと頭の中に浮かべていた解答を吐き出してゆく。
「なんかみんなが沸き立っているしそういうドラマや小説が流行っているからそういう空気になっているけど、正直いってそこまでみんな恋なんて好きだと思えないし、男の子だって性欲を処理できればどうでもいいんじゃないかな——異性に興味がないと変人みたいな扱いだから好きになっているだけだよね。もし結婚しないことが当たり前で何のステータスにもならなくて交際相手がいることがまともな人間であることを示す材料の一つにならないのなら、べつにわざわざ恋愛なんてしないよね」
「そうだな」
「異性と一緒にいるだけで特別な理由が必要なんて考え方は気味が悪いよ」
  演習問題(2)にうつる。
「そういえば東間くんから話しかけてくるのは珍しいね」
「気晴らしだよ」
「退屈なんだ」
「おまえは退屈じゃないのかよ」
  一度解いた問題だ。だから答えは覚えていなくても解法はわかる。ノートにさらさらと黒を連ねる。
「私はわりと楽しいけどな。あくまで私の感想であって、人と比べてどうかまではわからないけど」
「オレは退屈だな」
  うんざりとした声音に、こちらもうんざりとする。話が長くなるな、予感と共に演習問題(3)。
 
「昔から、よく、人に悩みを打ち明けられるんだよ。
「修学旅行の班で余りそうとか、彼女からチョコを貰えなかったとか。
「教師が自分に冷たい気がするとか、弟から借りたものを壊してしまったとか。
「恋愛勉強家庭の事情先輩後輩友人関係。
「延々と同じ話を繰り返されているような。
「悩みだけじゃない。喜びや楽しみだってそうだ。
「ああ、過去に似たような話をしてきたアイツとコイツは大親友になれそうな気がする……。
「だけど実際に、その二人はまったくの縁がない。
「友達の友達ですらない。
「近接しているうちはそれぞれ理解しえない別々の何かに見える為に、わざわざ無難そうな人間を選定して悩みを吐き出すが、遠くにはその人とほぼ合致した悩みや喜びを持った人間が存在しているんだ。本当は。
「気づけない。出会うことで。己の悩みに個性なんてないということが。
「もはや、
「もはやどんな人生もありふれている。過去にも未来にも。人間は組み合わせや飛躍に個性を見出そうとしている。でも、それだって有限だ。
「人生は、かくもつまらない」
  暖房が響く中でぺらりとめくる音がした。ちらりと隣を見やれば頬杖をついたまま英和辞典を読んでいる。私は首をもとに戻して黒板に視線を向ける。
「複数あることが、価値を下げるというのはなんだかよく分からないな。だいたい、あなたからしてみたら一つしかないものだし、私からしてみても一つしかないものなんじゃないかな。それは」
  だいたい数え切れない有限なんて無限と似たようなものだよ、と私は付け足したあとで、自分の手が動いていないことに気づいた。一度、ぎゅっと握って——ペンを転がすように置く。黒板は綺麗に消されている。
 
「もう新しいことなんて二度と起きないんじゃないかって、閉塞感をおまえは感じたことがないのか」
「あのね、東間くん。そんなもの、私だっていくらでも感じてるし、たぶんナミちゃんも小畑くんもみんなみんな気づいているだろうけど、でもそんな気づきには意味がないよね」
 
  ふつーですよ、ふつー。ひらひらしたものが大好きな女装趣味の後輩より。
 
「他人にも同じものが課せられているから絶望が軽くなるなんて、おまえはいったいなにを見てきたんだ?」
「目に見えないものは目に見えないよ。目に見えないものをそれでもあるんだというのはわかるし、ありうるかもしれないけど、目に見えないものが見えない人を責めるのはどうかな。もしそれがまかり通るのなら、自分には見えるんだって嘘をつけばいくらでも人を裁けるよね」
 
  あはは、絶望だって、濁音の多い冷たい響きを使えば何らかの重みを付与できるとでも考えているのかな。あはは。
 
「きっと今から百年前は、その十年後の目まぐるしい発展に希望を持てたのだと思う。でも今から十年後、十年前からの今はいったい何なんだ? ……何もかも熟しすぎて、今にも腐り落ちそうじゃないか」
「悲観的すぎるんじゃないかな。他人が成し遂げた発明の凄さに対して自分の意欲が左右されるなんて主体性がないだけだし、ただの言い訳でしかない」
 
  あはは、個人が心配する範囲を超えているだけじゃないかな。あはは。
 
「中学生のころ、初めて見たロマネスコ。
「既存のものとの共通項を洗い出して、それが同じような形であるとわかると、自然に自分の先端まで分かってしまうのではないかとオレは思って。
「ここまでありふれた過程があるなら、きっと結末だってありふれているに決まっている。もうこの世界に新しい人生なんて存在しない。
「繰り返すことが退屈なのは想像できるからだ。先読みできるからだ。既存のコードを知っているからだ。このフレーズは二回繰り返されるだろうとわかるからだ」
「きちんと見れば、何もかも少しずつ進んでいるし少しずつ衰えている。代わり映えしないように見えるなら、それはあなたの視野が狭いか、あなたが変わっていないだけ」
 
  あはは。
 
「自分が同じことを何度も繰り返したら退屈になるのはわかる。でも自分が他人と同じことをしているからといって退屈になるというのはおかしいよ」
「他人もそれをできるのなら、それはだれがやってもよかったことじゃないか。そんなものにやりがいを感じるか? 楽しいと思えるか?」
 
「うん。私もクラスメイトとクレープ屋に行ったとか、雑誌を買いに行ったとか、友達の名前を間違えていたとか、みんなでカラオケに行ったとか、夢を見たとか、原稿を読んだとか、遊びにでかけたとか、天気の話をしたとか、腕相撲をしたとか、後輩とデートをしたとか、食堂に行ったとか、汗をかいたとか、一緒に帰ったとか、傘を見つけたとか、撮影されたとか、そういうことしか積み重ねてこなかったけど、けど楽しかったよ?」
 
「だれがやってもよかったことかもしれないけど、たとえ人と同じことをしても、思うことは人それぞれだよ。
「同じものを与えられて違うものが出てくるのは、同じものに理由があるんじゃなくて、同じものを投入して違うものが出てくるまでの過程に理由があるんだと思う。
「人生がつまらないんじゃなくて、あなたがつまらないだけなんじゃないかな」
 
「本当に良いことをいうね、本山さん。まるで最初にそれと正反対のことを考えて、あとから心の中で何度も否定してきたみたいだ」
  顔を向けると、東間くんはこちらを見てにこにこと笑っていた。
「本山さん。僕は単純なことだけどこういうことを信じているんだよ。人の作り笑顔を指摘できる人間がいるとするなら、それは作り笑いをしたことのある人間である。実際にしたことのある人間だけがそれをする価値を認め、だからこそ他者もそうするのだと解釈する」
「東間くん。小畑くんの解釈ぐせがうつった?」
「悪いようにも良いようにも言える人間は、じつのところどっちでもいいんだよね、本山さん」
「その喋り方、本当に気色悪いな」
「そうだろ? 本山。もうちょっと気楽に話したらどうだ。どうせ意味がないんだから」
 
「どうでもいいことをどうでもいいよと語るのは疲れる」
「他人とどうでもいいことで争うはめになるから」
 
「個人と向かい合っているのは退屈だ」
「みんなとわいわい同じ空気を共有していた方が楽しい」
 
「問題は生じない方がいい」
「起こさないほうがいい」
 
「何か深い事情があるのだとチラつかせて悟らせようとする人が気持ち悪い」
「わかりたくない。わからない。理解できない。どうせどうにもならないんだから、話に出さないでほしい」
 
「浅くて薄っぺらくて表面的な会話の方が面白い」
「他人の人生の責任なんて一切とりたくない」
 
「自分と同じような人に出会っても、そこまで熱烈に語らいたいわけじゃない」
「不一致や落胆、劣等感を抱くぐらいなら語りたくない」
 
「自分より詳しすぎない人がいい」
「論破なんてされたくない」
 
「否定されたくない」
「自分の知っている範囲のことを吐き出すだけで『へえ』とうなずいてくれる人形がいたらそれで十分だ」
 
「分かってくれるという人は自分のことを分かってくれる人のことだ」
「自分が他人をわかる気なんて微塵もない」
 
「自分がどこまでも好きで」
「多様性を主張して己の存在を受け入れてもらおうとしながら、他人の多様性は受け入れない」
 
「単純」
 
  二人で鞄を持って教室を出る。東間くんが鍵を閉めて、鍵をぶらぶらと揺らしながら、私たちは職員室に向かって歩いてゆく。
 
「おまえは、おまえも大学進学だろ。もう春が来るぞ」
「そうだね。春が来て夏が来て秋が来て冬が来るね」
「この一年、楽しかったな」
「そうだね。楽しかったね」
 
  いくつもの教室で人がまばらに残っている。ノートや参考書を広げて黙々としていたり、仲良く話していたりしている。私たちはそれにまったく関係しないまま、その横を通り過ぎてゆく。
 
「といっても東間くんとの思い出は特にないな」
「オレもねえよ」
「まあ東間くんは私がいない時も生きているからね」
「お互い様だろ」
 
  始点と終点にいたことさえわかれば、道のりを覚えていなくても何かしらの方法で歩んできたのだと知らされる。
 
「いろいろあった。楽しかった。でも卒業式はきっと泣けない」
 
  紆余曲折なんて娯楽でしかない。
 
「いろいろあった。なにもなかった。意味なんてなかったよ」