マグロ義務

オートロックの暗証番号を忘れた男が小学生とお話しするオンライン小説です。

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小説家になろう

冒頭

 献辞に目も止めなくなり、それすらも物語に組み込むようになったとき、私は大人になったのだと思った。「けんじって何?」あなたへ、あるいは、あなたに捧ぐ。丸まっていた彼の背がごろんと揺れて踏み込み板にぶつかった。膝を抱える両肘を捕まえた両手が、指先だけあそんで通行人の足音を刻んだ。踏み幅にすっぽりと収まり、向かいの住宅を睨みつけていた。「弟のために作られたごはんをすっかり平らげてしまう話?」私の足は二段下に投げられていた。腹と膝のあいだにたたんだジャケットを挟み込んで、左脇に置いた鞄が倒れないように手でときどき押さえていた。「だったら大人になるのってたいへんだね」弟がいるのか。目前の道を車が走った。夕食のにおいが漂いはじめ、濡れた背中から冷えるような風が吹いた。「ううん、弟はいないよ」マンションの住人が帰ってくる。私たちを不審そうに見下ろしつつも階段を上り、押しボタンを操作する。立ち上がろうとしたところで、少年に手を引っぱられた。交互に見やるうちに、住人の背が透明の自動扉に遮られる。「次、行こうよ」腰を落ちつけて、考える。たった四桁の数字を忘れて閉め出された人々に捧ぐ、物語はないものかと。

情報

  • 2018年06月09日
  • 3788文字