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「好き」の不条理によって女子高校生が変人と交際するオンライン小説です。

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第5話 原稿を読んだ。

  三年に一回開催される大規模な文化祭の名をほどよく騙った三年に二回開催される小規模な文化祭(文化発表会)でのクラスの出し物が無事「地元の名所についての展示物」となった私たちは、丸テーブルを囲んで弁当を広げていた。
「詐欺じゃん。文化祭って大雑把に括ってるけど文化祭と文化発表会の規模ちがいすぎじゃん。オープンキャンバスの時に大きな文化祭を見せつけられてわくわく入学したらこれだよ! 頭がおかしいよみゆちー!」
「その言い方だと私の頭がおかしいみたいだよ。……来年は本格的な文化祭の開催年だし、三年になったら模擬店もできるし。むしろ他の学年の人たちより運がよかったんじゃないかな」
「模擬店って言っても市販のドーナッツを売るとかその程度じゃんか。外国の子どもだって路上でレモネードぐらい自分で作って売っとるわ」
  ぶつくさ言う有紗に対し、のほほんと私のお隣のやわらかエンジェル。
「一年生のときの文化祭は本当にがっかりだったよねえ。階段の飾り付けや休憩所作りなんてもう文化の発表要素すらないもん」
  うんうんと頷きながら卵焼きを箸でつつく。冷えたてぬくぬくなので、つついてもとろっとじゅわっとはしてこない。諦めてそのまま箸でぶにっと掴んで食べる。もぐもぐとしている間に私の対面にいた近藤さんと目があった。なんだなんだと思っているうちに有紗が頬を膨らませて。
「だいたいなんだよ。地元の名所って。そんなの展示してもだれも読まないっしょ」
「他のクラスだと地元の歴史について調べるらしいよ」
「あっ、七海も似たことをきいたよ。たしか地元の名産物について調べるんだって」
「どんだけ地元好きなんだよ! しかも文化発表会って基本的に部外者を入れないんでしょ? 全部既知だっつーに! 企画者全員キチガイだっつーに!」
  そんな。だれも意見を出そうとしない中、懸命にアイディアをひねり出してくれた神園さんをキチガイ扱いするなんて。
  もうやだあ、の呻きを慰める形で近藤さんがこそっと言った。
「生徒会がステージ発表の有志を募集しているらしいし、出てみるのはどうかな?」
「ああ? 無理無理。ステージに立つとかマジ緊張するし、そういうキャラじゃないし。原田とか佐伯みたいな目立ちたがり屋に任せた方が公共の福祉に反さないの。わかる?」
「そ、それって公共の福祉の話かねえ?」
  近藤さんの戸惑う視線を受けて私も首をかしげる。有紗、そういうキャラじゃないの?
「でもでもっ! 有紗ちゃん、マジックが得意だよねえ。去年の有志は歌と踊りばかりだったから、そういうのも需要がありそうだよ?」
「あのさあナミちゃーん。アタシのやれるマジックってすんごい小さいよ? ステージから離れた後ろの方に座っている人、なにしてるかまったく分かんないよ? 双眼鏡配る? んん? 双眼鏡を配って講堂の天井に夜空でもはっつけてプラネタリウムごっこした方が楽しくない?」
  軽く宙を見て想像する。講堂に並べた椅子に全校生徒がぞろっと座って、首からぶらさげた双眼鏡を持って天井にはられた偽夜空をしんと眺める光景を。
「いや、楽しくないよそれ」
「みゆちー、べつにいちいち想像しなくてもそれくらい分かろうよ」
  しゅんとして私はお弁当を片付ける。と、ふとして左隣に座る近藤さんの弁当箱が視界に入った。見たまんまの宝石箱と言わんばかりのいろどりゆたかな内容だ。つまるところ全然減ってない。
「どうしたの? 食欲ない?」
「あはははは……じつを言えばここのところ修羅場でして」
  声にならないような叫びが二方向から聞こえてきた。正確にはナミちゃんと有紗が勢いよく同時に身を乗り出して互いに体をぶつけあって悲鳴をあげていた。
「ぎい、ひぎい、いったいどこのどいつと浮気したわけ?」
「いたあ、いたあ、もしかして浮気されちゃった?」
「なんで浮気限定なの?」
  問うてみると姿勢をただしたナミちゃんが親指を立てて「昼ドラだよっ」と音符マーク。グッジョブ要素ゼロだよ、ナミちゃんのかわいさ、good job。
「浮気とかそういうわけじゃないんだけど、文化祭はさあ。クラスや有志の出し物の他に文化部の出し物があるわけですよ。ええい」
  変に抑揚をつけながら近藤さんが体を震わせはじめ、はあはあと息を荒らげながらライトに白目。近藤さんの呻きは続く。
「兼部オッケーだし週一とか隔週とかの参加で良かったからといって調子にのってメインに演劇部、サブに茶道部、漫画研究会、写真部、文芸部に入部していた私を追い立てるようにやってくる文化祭のための部誌、部誌、展示物、展示物、お茶会の準備、劇と劇の準備と有志の出し物の照明係! 一年生のころはまだ役割も少なかったから良かったけど、今じゃ漫画研究会と文芸部の部長だし、はあはあっ、というか部活関係はわかるけどなんで有志の出し物の照明をしなきゃいけないの? 生徒会は何をやってるの? 文化祭のパンフレットの表紙やポスターだって美術部に丸投げのくせに? キャッチコピーは学校全体で公募だし学校を題材にしたコラムだか存在の意義のわからない文章を文芸部に丸投げ依頼しているくせに? ええ? そもそも講堂でやる行事のときにきまって放送部や演劇部にミキサーをやらせるのはどうしてなんでぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽ」
「あー、発狂してるよ」
「年に一回は話題にあがるよねえ。有名人の薬物問題」
  友人の苦しみをエンターテイメントのように消費するナミちゃんと有紗をうるっと見た後、近藤さんが瞬きを高速に繰り返しながら私に顔を近づけた。
「ももももももも本山さんなら分かってくれるよね」
「ももももももも本山さんはちょっと分からないかなあ。あとこわいよ近藤さん」
  近藤さんがぶるぶると顔を横にふるわせながら、ずずずと私から距離を取る。近づいても遠ざかってもおそろしい。
「はああ、もうほんとどうしよ……もうクラスの出し物、私の手伝いにしよ?」
「うわあ、むちゃくちゃ私利私欲だけどそっちの方が楽しそう」
 
「という話があってね」
「長えよ」
  東間くんはこちらに向けていた長い足をひょいと組み替える。まだ私たちしか登校していないからといって、いやに横柄な態度だ。どうでもいいけど足が長いほど体つきが女っぽく見えるのはどうしてだろう。あっ、これってもしかして近藤さん案件?
  咳払いをしたあと、私は椅子に座りながら東間くんの方を向いて両手を膝に置いた。
「そういうわけで東間くん。近藤さんのために一肌脱いでほしいんだけど」
  露骨に眉をひそめた東間くんだったが、私のまなざしに気付いたらしい。組んでいた足を解き、こちらをじっと見返す。しばらく見つめあったあとで私はおそるおそる口を開いた。
「文化祭前日に届くように、学校を爆破するという旨の手紙を出してもらえないかな」
「文化祭そのものをなくそうとするのはやめろ」
「大丈夫、結果的には東間くんもろとも消すから」
「どこに大丈夫要素があった」
  だめだったよ、近藤さん。
  がっくりとしながら再び正面に向き直る形で座り直して、私はだらっと頬杖をつき、ぎろっと東間くんを睨む。
「けっ、所詮は半熟腹黒王子か。キャラを作っている割にキャラが薄いし面白いことしないし、東間くんって小畑くんのおまけか何かでしかないの?」
「人生で一番の中傷だそれ」
  顔を強張らせて地味にショックを受けている東間くんを放っておいて、近藤さんの顔を黒板に投影する。大丈夫だろうか。心なしか近藤さんの顔色が黒っぽい緑色になっている気がする。黒板に投影していたからだった。
 
  教室の各所でフェルトペンが着実と使えなくなりつつある中、ナミちゃんが膝をついて模造紙にきゅっきゅと題字を書いていた。『地元の名所について』というごくありふれた退屈な文章が、匠の技によってダイナミックかつ斬新にのびのびと記され、グラデーションの影までつけてカラフルポップに紙面を踊ってゆく。
  いつの間にか私の隣にいた秋永くんが小さなため息をもらして、こそっとつぶやいた。
「女子ってこういうの、本当に得意だよな。飾りつけとか字を書くとか。男とは色彩感覚から違うって気がする」
「先天性の色覚異常は女性より男性の方が多いらしいよ」
「そーなんだ。本山ってなかなかユニークだね」
  人のことをいきなりユニーク呼ばわりする人も十分にユニークだ、とヒニークを念じていたところで、有紗がぴょこっと現れた。
「おっ、秋永じゃーん。買い出し班じゃなかったんだ」
「そこまで人がいる感じじゃなかったからなー。でもこっちもあんまり男手は必要ない感じで正直いって暇してる」
  買い出しには東間くん小畑くん後藤くん田代くんの四人が行っている、ことを充血させた目をぎらぎらに濁らせフガフガと声を立てて笑う近藤さんから聞いた。聞いて損をする情報ではないが、今の近藤さんからは聞きたくなかった。
「男手以前に人手が必要ないって感じじゃん。買い出しだって飾りつけの道具っしょ。こんなの、授業時間を割いてやってるからいいけど、もし放課後にこの作業をやらされるなら絶対にサボってうふうふショッピングするわ」
  部活に行こう。
「そういう点じゃ今のゆるさもわりと助かるな。うちの部活は放課後に抜けて作業を手伝える感じじゃないし」
「まーいいんじゃね? 文化祭ってクラスの出し物はおいといて文化系が主役でしょ。体育会系はこの時期に部活なりなんなりで練習を頑張って夏の大会で結果を残せばいいし、秋の体育祭でビシバシ活躍すりゃいいわけよ。うん。アタシたちの放課後は自由だ!」
  部活に行こう。
 
  どったどったと乱れた列をなして走る運動部に横目に、近藤さんと私は上履きをみやげに部室棟を目指していた。写真部、文芸部、漫画研究会、映画研究会などの活動場所となっている部室棟だが、いちいち外履きに履き替えないといけないという煩雑さのせいで知名度が極端に低い。私も部に知人がいなければ「設計ミスで孤立した謎の棟」として存在を無視していたところだろう。
  部室棟をめがけて二人でじゃりじゃりと歩いていたところ、私たちは大きな声で呼び止められた。立ち止まって振り向く私たちに、どすどすと接近してくるダンボール——を抱えた高橋が話しかけてきた。
「中学のときからそうだったけど、もとやまの友達ってみーんな可愛いのな。少しはブスとも付き合えよ。世界が広がるぞ」
「先輩ってボードゲーム愛好家のくせにどうして協調性も人間性も皆無に等しいんですか?」
  ダンボールの後ろからひょこっと高橋先輩が顔を出してウインク。ふざけているのか?
「俺は人を騙したり駆け引きで勝利したりするのが好きなだけであって、べつにみんなと仲良くしようなんてじぇーんじぇん考えてないからな。協調性を試すゲームなんかやるぐらいだったら一人でモノポリーをやっていたほうがよぉおおおおおおっぽど楽しい!」
  近藤さんが私と高橋をおろおろと交互に見る。私だってこんな変質者の前ではおろおろと知らないふりをしていたい。
「そういえば先輩のところの出し物って、絶対に先輩の発案ですよね」
「ヒッヒッヒ……覚えておけよ、もとやま。ふだん自己主張をしないやつの熱烈な意見はわりと無条件で通りやすい」
  自己主張の塊から見当違いなアドバイスをいただき、恐縮のあまり鼻で笑ってしまう。隣でぱちんと手を鳴らして、近藤さんが私と高橋の間に入ってきた。
「あっ。もしかしてボードゲーム喫茶のクラスの方ですか? あれ! すごく面白そうだと思ったんですよ! 文化祭当日に暇があったらぜひ行くのにって!」
「ぐへへ」
「先輩のアイディアは単なる模倣だから。よく行くボードゲーム系カフェの真似だから」
  高橋に誘われて何度か一緒に行ったことがある。壁や棚のいたるところにボードゲームがずらっと並んでいて、その場で好きなゲームを遊ぶことができる。時間制で置いてあるボードゲームの数も豊富なので「買うほどではないけど一度はやってみたいゲーム」「存在すら知らなかった未知のゲーム」に手を出しやすい。まったく知らない人でも同士として一緒にゲームを楽しめるし、やっていることの地味さに反してなかなか楽しい場だ。以前、高橋はこうした場を「すぐに出会えて遊べて逃げられるボードゲーム界の出会い系」と評していたが、本当に高橋って最低。
 
  近藤さんのプロフィールを執拗に探る高橋を撒いて、私たちは部室棟にある文芸部の部室の前にまでたどり着いた。すでに人がいるらしく鍵が開けられている。近藤さんががらりと扉を開いてずんずんと先に進んでゆく。私はその後に続き、がらがらと扉を閉める。物にあふれて狭苦しい縦長の部室のずっと奥で、窓を開けて外を覗いていたらしい。後藤くんはこちらをぎょっと振り返って急いで立ち上がった。
「あああああああ、何」
「いやあ、ちょっと本山さんに原稿のことでアドバイスをもらおうと思って」
「ノックぐらいしてよ。ビビるじゃんか」
  後藤くんはそう言いながら部屋の中央に置かれた長机の方まで椅子を持ってきて端の方にちょこんと腰をかけた。後藤くんの目前には分厚い本が積み上げられている。私が後藤くんの対面に、近藤さんがその左隣に腰をかける。
「部活がない日にこうやって本を読んでいるなんて、本がすごく好きなんだね」
  という私の言葉に「ええ、まあ」と歯切りの悪い返事。おまけに目をそらされる。と近藤さんが隣でくすくすと笑った。
「後藤は私と一緒で小説を書いているんだよ。ほら、本って言っても置かれているのは辞書や事典でしょう」
  名探偵の推理に後藤くんは顔をうつむかせて、そわそわと忙しく視線を惑わせた。
「この量の辞書を借りて持ってかえるのはダルいし、でも流石に教室で書くわけにはいかないし……」
「そっか。でも部誌に載るような小説ってパソコンで書くものじゃないの?」
「本当はパソコン室で書こうと思ったんだけどさ。コンピューター部も文化祭で催しをするらしくて今、むちゃくちゃ準備してんの。なんかゲームの制作やってんだよ! 超ヤバくね?」
  確かにヤバい。私は後藤くんの前に置かれた辞書を眺めながら熱心に頷く。隣で近藤さんがふむふむと指で机の表面を叩く。
「ここのコンピューター部って本当にガチだもんねー。検定試験もバリバリ合格して、コンテストにも積極的に作品をだしているらしいし。そうやってきちんとした活動ができるから部員が多いのか、部員が多いからきちんとした活動ができるのか。いやまあ単純に活動できる範囲はこっちも負けてないと思うけどね……ああっ、俳句甲子園とか出てみたいなあ」
  湿っぽいため息をついたと思うと、近藤さんが勢いよく椅子から立ち上がった。おかげで後藤くんが椅子から跳ね上がりシャープペンシルの芯をばきっと折れる。
「よしっ、ちょっと原稿をとってくるから待ってて!」
「あれ? とってくるって、どこから?」
「教室に忘れました!」
  やれやれ勘弁してくださいよう、と笑いながら部室を飛び出してゆく近藤さんの背を見守る。そして我ながらぎこちない動きで後藤くんの方を見た。
「あはは……私のことは気にしなくていいから」
  後藤くんは頷いて原稿に向かう。原稿といってもルーズリーフに書いているらしい。まあどうせパソコンで書いて印字するだろうから、と思っているとちらちらっと上目でこちらを見た後藤くんとしっかり目があってしまった。
「見られていると超気になるんですけどっ」
「ごめんね。えっと、そうだ。ちょっと部室にあるものを見てもいい?」
「たぶん? 私物は置いてないはずだから、大丈夫っしょ」
  お言葉に甘えて、と静かに椅子から立ち上がり、後藤くんの背後にある大きな棚の前に立つ。背文字もないぐらいの薄い冊子や分厚めながらよれよれと見るからに頼りない作りの本がブックスタンドに支えられキッチリと並べられている。部誌なんだろうか。わりと量が多いなと思っているところで、かすかに空気が揺れた。
「部誌だよ。うちのところのは、こっちの段のやつ。それ以外は他校のやつ」
  後藤くんが私の隣に立って、棚のふちを指ですすとなぞって遊んでいる。もう原稿をやる気ないなこの人。
「他校の文芸部と交流があるんだ」
「交流っていっても、まれにだよまれに。部誌を交換したり顧問の愚痴を話したり、あとはオススメの本や映画を紹介しあって、まあそれが交流の一割ぐらい」
「まれにある交流の一割がそれなんだ……残りの九割は?」
「ボーリングとバッセン」
  うわあ、文芸要素ゼロ。
  ボーリングガチヤバいぐらい得意なんだよね〜と口元を緩ませる後藤くんであったが、後藤くんの語彙の方がガチでヤバいよ、マジで。
 
  可愛らしい柄付きダブルクリップが左上端をぱちんと留めていた。ぺらりとめくって最終頁のノンブルを確かめたところ「10」と記されている。ざっくり見たところ四十字四十行のページ設定で印字したらしい。一見はごくごく普通の原稿のように見える。
「この小説って文化祭で配布する文芸部誌に掲載するんだよね」
「そうだよ。もちろんこれから手直しをするけどね」
  そっかあ、手直しするのかあ。隣の近藤さんに笑顔で納得を表明して、私は再び問題の一行目に目を通した。

僕と小畑が付き合いはじめてもう二か月になる。

「出だしから妄想!」
「大丈夫。終わりまで妄想だから」
  どこに大丈夫の要素があったんだろう。気を取り直して二行目に移る。一行目と同様に先頭の一マスを開けているようだ。改行はやいな。
 
それだというのに、まだ性行為もしていない。

「ごめん。これって前後の文章、つながってるの?」
「大丈夫。どこまでも地続きの日常を書いたものだから」
  地続きというのは地面と地面が海や川に隔てられることなく続くことであって一行目の次に大洪水大氾濫じみた二行目を持ってきた時点で説得がない。深呼吸をして次に目を通してゆく。
 
僕はどうしても不安になる。
小畑は僕を傷つけないために仕方なく付き合っているんじゃないか。
振り返って自分よりはるか後方にある小畑の席を見てみる。
本を読んでいるようだ。
ページをめくりながら、口元がわずかに緩んでいるのが見える。
なんて楽しそうなんだろう。
じっと見ていたからか、彼が顔をあげた。
目があって挙動不審になる僕に対し、小畑が微笑む。
それから小畑はまた本を読みだしたが、僕はそれでも幸せだった。

  情景描写の欠如による季節も時間帯も環境すらも分からない空間を、正体不明の視点者「僕」の不安がよたよたと満たしてゆく。改行が多くて原稿の下部がスカスカなのは読書中に突然の電話を受けてメモを書く必要性が出たときのための配慮なのかもしれない。続ける。
 
——ゆっくりやればいい。二人の間をおびやかすものは何もないのだから。
そう安心しきっていた。
しかし現れたのだ。

本山佳美優が。

「幸福な日常を突如ぶち壊しにする怪獣みたいな扱い!」
「出しちゃいました」
「出しちゃわないでよ」
  てへっと舌を出して笑う近藤さんに、話を聞いていたらしい後藤くんが肩をふるわせてひっくひくと声を立てて笑い始める。ここは地獄か?
「小畑はまだありそうな苗字だからともかく、本山佳美優って知っている人は明らかに私を連想するし、この『僕』だって東間くんだよね」
「まー、名前はあとで置換するから問題ないよ。あっ、置換っていうのは問題にならないほうの置換ね」
  謎の注釈だが近藤さんにいたっては必要な注釈に思われるので不思議だ。まだげらげらと笑っている後藤くんを見ながらため息をつく。
「だったら置換後の小説を読ませてくれればよかったのに……というか後藤くん、ふつうにこの話を聞いてるけど大丈夫?」
「問題ないよー。私は後藤の弱みを握っているから、バラさないバラさない」
  またしてもシャープペンシルの芯を折れる音がして後藤くんを見た。笑いはとうに失せ、血の気も引いているように見える。と思えば、途端に息を吹き返したかのように頬から耳まで真っ赤になった。沸騰するぐらい人には言えない秘密なのかな、有紗のこととか——と思い当たって私は後藤くんと近藤さんを交互に見た。いや、それもうバレバレだよ!
「げっへっへ。後藤、仲のいいクラスメイトが私の小説で好き勝手に弄ばれて陵辱される姿を指をくわえて見ているがいいよ! そういうのも乙なものだからね!」
「ぐ、ぐぬぬ」
  とんだ茶番に巻き込まれてしまった。
  日常怪獣本山佳美優が二人の仲を急速に縮める役割を果たして綺麗さっぱりいなくなり残された二人が熱いキスをしたところで(了)の文字に突き当たった。よくこの小説を教室に忘れることができたな近藤さん、なる軽蔑と尊敬の入り混じった感情を「ももももっと地の文の描写を濃くしたら原稿も引き締まって見えるんじゃないかな」の謎アドバイスに変換し、私はこの魔境から鞄と上履きをもって飛び出す。
  だらりと流れた額の汗をぬぐって、私はとぼとぼと昇降口の靴箱に上履きを戻す。靴箱に向かいあいながら、頭だけ廊下側に向ける。一階には三年生の教室がある。まだ人が残っているようで声が聞こえる。靴箱は階段の側面に対する形で存在し、廊下側の蛍光灯と外側の自然光が靴箱を挟むように照らしている。外はだんだんと暗くなりその光は弱くなっている。そのどちらの光も届かぬ場所で私は一人ぽつんと立っている。
「本山さん」
  その人は階段から降りてきて、私の顔を一回見た後、目をそらし靴を履き替えはじめた。
「今日、遅いね」
「小畑くんも」
「図書室に行ってたから。本山さんは?」
  靴を履き終えた小畑くんと一緒に昇降口を出る。文芸室で近藤さんの小説を読んでいたのだとだけ話せば「もうすぐ文化祭だもんね」と小畑くんがぼんやりつぶやいた。
  楽器の音、駆け回る音、笛の音、飛沫の音が混ざり合う中で、ばらばらの足音が響いていた。
「小畑くんは物語を書く人?」
「書かない人だよ。読むのはどんなものでも好きだけど、でも、物語には特別が必要だから」
  校舎からもグラウンドからも中庭からも少しずつ離れて、足音が大きくなる。
「どんなものでも好きだといえるのは、特別だと思うけどな」
  ひんやりと澄んだ風が吹きつけ、葉がはしゃぎだす。校門が見えてくる。足音が一つになっている。私は足を止めて、彼の方を振り返る。
「どんなものでも好きっていうのは、特別に好きなものがないってことだよ」
  小畑くんが笑っていたので、私も笑うことにした。
「特別、特別に好きなものがないのも、特別」
  一歩を踏みだした小畑くんに合わせて再び校門の方を向こうとする、その間だった。
「今日から、おれも、物語を書けるかも」
  どうせ別れ道に至るとしても。私たちは再び並んで歩きはじめた。