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「好き」の不条理によって女子高校生が変人と交際するオンライン小説です。

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第3話 友達の名前を間違えていた。

「ところでお前さ。こばたくんって何なんだよ」
  By the wayはとつぜんに、朝からポリエチレンシートみたいな自己愛の膜をはっている東間くんが、むきだしの新書をぱらぱら読みながら話しかけてきた。「ところで」を使ったら脈絡もなく話をしはじめていいと思わないでよねっ、のリズムで鞄から教材を取り出して引き出しにせっせとつめてゆく。
「ああ、東間くんはこばたけ派だもんね」
  こばたと呼んでいるのはおそらく私とハゲ担任ぐらいだ。しかしおそらくハゲ担任の方はつける「け」がないから、こばた呼びにするしかない妥協こばた派。私は「け」があるにもかかわらず、こばたと呼んでいる真こばた派。ここには大きな違いがあるし、されどこばた、やはりこばたの世界である。
「派というか、こばたけ」
「ん?」
  本を閉じて東間くんはじとっとした視線をこちらによこした。
「あいつの名前、こばたじゃなくてこばたけ」
  そんな小林武士、略してこばたけみたいな……。
「た、確かに。こばたしんくんって何か響きがよくない気がしていたよ」
「違う! しんじゃない。すすむ。こばたけすすむ」
  真上にある電気が少し暗くなっていることに気が付いた。
「そっか。電気、かえてもらうように頼まないと」
「現実を見ろ」
「こばたくん……傷ついていたらどうしよう」
「あ、そのままでいくのな」
  だってこばたけくん、呼びにくいし。
  東間くんが隣で大きなため息をつく。なぜだろう、東間くんがため息をついていると心臓部がきゅんとくる。これが恋かな、邪悪だな。
  引き出しからはみ出た教科書をとんとんと手で押しやって頬杖をつく。
「どうでもいいけど、東間くんって下の名前なんだっけ」
「どうでもいいなら聞くなよ」
「あっ、待って。たしかあれでしょ。セイチョウでしょ。どういう字だったかなあ。性欲の性に胃腸の腸?」
「違う」
  私が本気で首を傾けると、東間くんはぷいっと私から顔を背けた。
「キヨスミ」
「えっ、まさかそれって清いの清に澄みきるの澄で清澄?」
「違……いや、それだけど」
「嘘だー。名前と真逆だよー。ご両親がせっかく考えてくれた名に真っ向から対立して生きている超反抗期だよー」
  ガンッ。
  毎度のことながら東間くんの蹴りが私のかわいい机の脚にヒットする。どうしよう、このままでは机の脚が歪んで机の台とともに私の書く体勢が斜めに沈んでゆき、東間くんの右足がだんだん固くなっていくかもしれない。
「合ってねえのは僕も知ってる。清澄って性格じゃないからな」
「あ~! いるよね。『そんな欠点は前から知ってるぜ』みたいなこと言って他人に指摘されるのをけん制する人。それで『悪いところを知っていないやつよりマシだ~』みたいな態度。第三者から見ると、分かっていて直さない人のほうがよっぽどムカつくのにね~」
「おまえの口の悪さは無自覚なのか?」
  教室内の時計を見ると本日もお日柄よくなめらかに秒針が動いている。早く来てくれないかな、小畑くん。こばたくんと呼んでいいか、確認しなければ……そうぼんやりしているうちに沸いた突然の音にギョっと頬杖が崩れる。扉を開けた委員長は不自然に集まった私と東間くんの視線から逃れるように俯き、背に回した手でそっと扉を閉めた。
「えっと、おはよう。委員長!」
「お、おはよう? 本山さん。最近、来るのが早いね。東間君は前々から一番だったけど……」
  私の右後ろの机に委員長は鞄を置いて立ったまま話しかけてきた。にこにこと返事をしようとしたところで、東間くんがぽつりとつぶやいた。
「本山さん、委員長なんて呼び方はどうかと思うなあ」
  東間くんの方をみると、いかにも変質者らしくニヤニヤとしている。
「委員長なんてのはただの役職だからね。一年間、ともに学業を歩むクラスメイトを役職で呼ぶのはどうかと思うな。個人を尊重しないと」
  ごわっ! ごわっ! 心に化け物を飼いながら委員長の方をちらりとみる。委員長はくすくす笑いで三つ編みおさげを揺らし、それから両手で丸メガネの位置をなおした。
「べつに気にしてないけど、委員長って呼ばれるのはちょっと堅苦しいかな。わたし、あんまり委員長って感じでもないから」
  だめだ。この流れで名前がわからないなんて言えないし、どこからどう見ても委員長っぽいとはまして言えない。
  背後からヌヌヌとおぞましいな圧をかけられ、いよいよ委員長に土下座をしようとしたその時、扉が開いた。
「おっ、今日は四番目かあ。おはよー、みゆちー、東間、神園さん」
「おはよう、ビューティーマイエンジェル有紗」
「なにそれ超キモいんだけど」
  冷ややかな目で私を見つつ有紗が席につく。私は委員長の方に改めて向き直った。
「神園さん! これから神園さんって呼ぶね、神園さん!」
「う、うん? なんか不思議な感じ。本山さんにはじめて苗字で呼ばれた気がする……」
  気のせい気のせい、と言って私は堂々と胸をはって東間くんの方を向く。本を読んでいる。私は再び前を向いた。
 
  ちょろちょろと人が来ているはずなのに、小畑くんだけが来ない。そういえば小畑くんはいつも結構ギリギリに来るな、とぼんやりしていたところで誰かが私の顔の前でぐわっと手を開いた。
「おはよお」
「おはようナミちゃん。いや、浪川七海ちゃん」
「なんで突然のフルネームなの?」
  ぽわぽわしながらふしぎそうにするナミちゃんを難なく追い払い、私は腕を組んで踏ん反りかえり東間くんの方を伺う。本を読んでいる。私は再び前を向いた。
 
  他、近藤莉果さん、秋永一樹くん、田代健司くん、後藤郎太くんなどをやっつけた私はその度に東間くんを見たが、東間くんは本を読んでいた。私は再び前を向いて、黒板の左斜め上に掛けられた時計を確認する。そろそろ、と思ったところで廊下から聞こえる大きくもったいぶった足音、激しい足音、注意の声、応酬の叫び、乱れる足音。思わず音の方向を注視すると、開いている教室前扉の前で小畑くんが先に入ろうとする担任教師に軽くタックルをくらわせて入室妨害を行っていた。ハゲが毛根弱々しくよろけている間に小畑くんが教室へ足を踏み入れたちょうどその時、朝HRはじまりのチャイムが鳴り響く。一仕事を終えてきたような顔を浮かべた小畑くんが教室内を闊歩する中、目があい、はにかまれた。
「あっ、おはよう。本山さん」
「こ、こ、こはよう。あの」
  ついに名前のことを切り出そうとしたが、体勢をととのえたハゲが教壇に踊りでてゴホゴホ咳をしはじめたので、小畑くんは急いで自席に向かってしまった。どうしよう。このまま佳美優ちゃんは小畑くんに名前のことを切り出せないまま今日一日を終えてしまうのか?
 
「あ、う、うん。べつにいいよ……というか、わざとそう呼んでいるのかと」
  朝のホームルームが終わったあと、一時間目が始まるまでのささやかな休憩時間。私はさっそく小畑くんの前の席を借りて、リズミカルに頭を下げていた。
「ご、ごめんね小畑くん。殴るなら東間くんを殴って」
「殴らないし、東間がとばっちりすぎるよ」
  優しい小畑くんは東間くんと私を許してくれる。どこかの机蹴り男もこの寛容さをみならってほしい。
「それにしても良い名前だね。進って。とっても前向きで」
「あはは、そうかな。わりとありふれた名前な気もするけど。由来も含めて」
「良い名前ってのはありふれているものだと思うよ。名付けた人にとって、それが良いと思って名付けたんでしょう。その結果がありふれたものだということは、それだけ多くの人が良い名前だって考えたんだよ」
  そもそも人に名付けることのできる字は決まっていて、その中でも良い意味をもつ字はさらに決まっているのだから、悪意や教養のなさが主張しないかぎりその組み合わせは有限だし、悪魔という名は受理されない。
  小畑くんは頭をぽりぽりと掻いて、困ったさんのような笑ったさんのような不思議な顔をした。
「名前といえばさ、本山さんの名前ってやっぱりあれが由来なの?」
「うん、あれ。命名者があれを好きだったらしいよ」
  本山佳美優。
  それが私の名前であり、中学生のときに『異邦人』なんて安直なあだ名を付けられた理由である。決して私が葬式で泣かなかったから付けられたわけではない。
「ご両親がつけたわけじゃないんだ」
「私の叔父が付けたの。本山姓なんて御手洗さんや下水流さんと出会ったら全裸土下座をするしかない! だからヘンテコな名前じゃなきゃダメだ〜なんて助言をして父と母を困らせたところで、この名前を提案したんだって」
  叔父はあの作家を本当に愛していた。特にかの作家の書いた有名な戯曲からビンビン伝わるキリーロフたんちゅっちゅっぺろぺろ衝動にすごく共感する、なんて熱く語っていたぐらいだ。しかしそれって単にキリーロフが好きなだけなのでは?
  そわそわしている私をみてどう受け取ったのか、小畑くんははにかんだ。
「由来関係なしに良い名前だと思う」
「えっ」
  完璧に目があって、それから、完璧に目をそらされた。
「あ、いや、うん、その……おれは好きだな」
  By the wayはとつぜんに、自分の名前をカタカナで書くと『神子さんですか?』と勘違いされるので、私の名前は業が深い。