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「好き」の不条理によって女子高校生が変人と交際するオンライン小説です。

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第18話 好きな人に物語られた。

  叔父さんからの無心の手紙をちぎって投げて炒めて捨てたその翌日、小畑くんに誘われて公園に行くことにした。
 
「本山さんとずっとこうして歩いていたいな」
 
  駆け回る音や笑い声にまぎれて、ぽたっぽたっと水滴の落ちる音が聞こえる。
  きらきらと光る舗装された道を、慎重に、私たちは踏み歩いて行く。
  きんと冷たい風を浴びて、肩に掛けた学生鞄の紐を掴む。
  雨上がりのにおいが吹き込み、一瞬だけ息を止める。
  私は考えることにした。
 
  趣味が合うのは先輩だ。
  高橋は「モノポリーは人生!」と言いながら、机上の手作りすごろくを睨みつけサイコロを振った。
「推薦合格してから妬むやつがたくさんいてよお。教師や面接官に媚びを売るのがうまかったとかその場で実力以上の力が発揮できたんだねとか言い出しがやって! いや、俺、おまえより平均評定高いし? 一日一日を、一つ一つの授業を、小テストを、定期考査を真剣に取り組んだ結果だし? 推薦枠だってかぎりがあるんだけど? 推薦も貰えないような日常の態度で、三年になって意識を切り替えて必死こいて普通受験するみたいな方が、よっぽど場当たり的で自分のこと要領がいいって思ってるようにしか思えねえんですけどお?」
  投げ出されてからころころ勢いよく机から飛び出した後も転がり続け、ようやく止まった目は六だった。
「自分に才能があると思ってるやつほど、他人の成功や自分の失敗に対して偶然とか運とか適用させんの好きだよなあ。ばっかじゃねーの、人生はすごろくじゃねえんだぞ」
「先輩、ぴったり辿り着かないとゴールじゃないですから。あと三マス後退してください」
「すごろくは人生より厳しい!」
 
  一緒にいて楽しいのは美鶴くんだ。
  部屋に案内された私はそのまま床に座って、姿見を前に忙しく動くその背を見つめていた。
「日が浅いから舐められてるんですかねー。それにしてもテレビじゃないんですから、もっと自覚をもって参加してほしいもんですよ」
  ひら、ひらり。美鶴くんは衣類用ハンガーに掛けられた花柄のワンピースを手にして、めったやたらにポーズを決めていた。
「べつにネット生放送に限らないんですけど、どこにでもいますよねー。面白くないつまらないって呟くだけで、何もしないやつ。せいぜいお前らはオレを楽しませろよーみたいな! 何様のつもりだって感じですよ! 一生、薄い膜をはって遠目でだれかが何かをやっているのをぼんやり批評するつもりですかね? だったら、ほんとーに来ないでほしいですよ! 場を維持する努力をしない人間の居場所なんてないんですからね」
  ぷりぷりと怒りながらキメキメでポーズを取っている美鶴くんに対し、私はぽつりと呟いた。
「一人の悪意で空気が変わる、密接なコミュニティだもんね。美鶴くんの生放送で『下着は何を履いてるの?』ってコメントしてみたら、その後で色っぽいコメントが増えたし」
「何やってんですかカミユ先輩」
 
  それでも、女友達と一緒にいるときの楽しさに勝てるものはないだろう。
  グラウンドで走り回るサッカー部を見下ろしながら、有紗は窓枠に肘をついた。
「最前列の客がさー、ぷるぷるしてたのよ」
  ぶるぶるぶる、唐突に唇を震い鳴らした有紗は、私の反応が薄いと見て再び窓の外を見やる。
「暗そうなイケメンでさ。アタシがマジックを披露するたびにはっと目を見開いて、唇を噛んで、ぷるぷるすんの。今まで老人や子どもを相手にすることが多かったから、上手くできてないのかと思ったんだけどさ。全部終わって人が散り散りになった時にそいつが近寄ってきて小さな声で言ったワケよ。まあまあよかったですね、少しびっくりしそうになりました、みたいな」
  強く吹いていた風に合わせて窓ガラスがきしめいた。有紗の愁いを帯びた横顔を見ながら、ぶわっと広がるカーテンを手の平で叩いて押しのける。
「自分の感動を隠して、何になるワケ? 動じてないですよ、ってだれもおまえのことなんて気にしてないっつーに、なんでわざわざ取り繕うワケ?」
  手を離した瞬間、反撃とばかりにカーテンが私の顔を嬲った。カーテンの側面に往復ビンタされている私をよそに、有紗は空を眺めていた。
「強がりが習慣になればいつかそれが正面になる。何が本当なのか、わからなくなる。驚いてない怒ってない辛くない悲しくない面白くない嬉しくない好きじゃない——他人からクールな印象を抱かれたいみたいなつまんねー虚栄心で、これからの自分の人生を台無しにしていくんだ。本当に驚嘆に値する手品だよ。真作と贋作をすり替えて、額に贋作を入れるなんてさ!」
 
  膨れる頬に指を埋める。さらにぶにぶにと押し離せば、眉間にしわを寄せてくる。ナミちゃんは空気をぎゅっと飲み込んだと思うと再び頬に空気を入れて私の指を弾きかえした。
「料理教室に、三十代ぐらいの男の人が来たんだけどねぇ」
  あてもなく私のひとさし指は宙をさまよい、ゆっくりとグーの形にしまわれてゆく。
「体験教室にも来ててね。まさか本当に入会すると思わなくて、みんなでびっくりしたんだよ。でもその人、本当に料理を学びたい〜って感じじゃなくてねぇ。二十代ぐらいのお姉さんたちにしつこく話しかけていたんだけどっ、普通に相手にされなくってー、それでしばらくしたら来なくなっちゃったの。おかしいよう、料理をするのが好きだって、もっと学びたいって言ってたのに……」
  そのまま固めたグーでナミちゃんの頬を柔らかに殴る。と、ナミちゃんは私の手をぎゅっと両手で握って、むふふと微笑んだ。
「趣味の長さをくらべっこしたり、どれくらいの深さか競ったりする人ってたくさんいるけど、ついてけないんだよねぇ。それって好きでいるのに本当に必要なことなのかなぁ。好きなものはそのまま好きなだけじゃだめなのかなーって……異性となかよくしたいとかちやほやされたいとか、そういう他に目的のために好きなものを使うのはよくわかんない。それって手に入れたいものが好きなだけで、利用したものは大して好きじゃないと思うな〜」
 
  度重なるくしゃみの衝撃のそばだった。長机にそびえ立つライトノベルタワーを崩して慌てる後藤くんの斜め横で、近藤さんはノートブックに同性愛小説を書いていた。
「自分の萌えは他人の萎え、他人の萌えは自分の萎えーなんてものに拘っていると、疲弊しちゃうよね。いやさ、そりゃ私もそれでこれはないだろーみたいなのはあるよ。神聖というか神域というか。そこでひっくり返すのはありえないとか、その組み合わせは本当にないとか。大雑把な私にもそれぐらい譲れないところがあるんだから、他の人もあるんだろうし、何よりそういう共通認識がある。人それぞれ地雷があるから、みなさん相手の地雷に気をつけて会話しましょう! みたいなさ。だけどそもそも地雷って事前にわからないから地雷だと思うんだよね! だから踏んじゃうのはわりと仕方ないというか……どうして抑制の方向に行くんだろう。仕方ないなら、突っ走ればいいのに。みんなで地雷を踏みまくって雄叫びをあげながらも自分の好きを語ればいいのに」
  ノートの見出し欄には殴り書きのように『♂』と『♂』の記号が掛け合わされた何かが書かれている……首をぎぎぎと横に動かせば、後藤くんは顔を隙間なく手で覆ってぷるぷると全身を震わせていた。
「自分の好きなものが相手の嫌なもので、不快にさせるかもしれない。嫌われるかもしれない。そっと避けられてしまうかもしれない。そうやって怖じ気付いて、その場にいない他の人の好きなものについて語るだけで終わらせてしまうようになったら——いくら平和が続いても——すっごく虚しいよ」
 
  ゆったりと思考を促してくれるのは秋永くんだ。
  彼は「ちょっと待って」といってしゃがみ込み、靴ひもに手を掛ける。
「ぬるいなー」
「そうだね。あつくもなければつめたくもない」
  グラウンドから次々とクラスメイトが引き上げてゆく。私たちのそばをたくさんの足が通り過ぎる中、秋永くんの頭は微動だもしていない。視線を落として目を凝らせば、解けた靴ひもを指に掛けたまま、ぷらぷらと暇にして遊んでいるらしい。人々の声や足音の中にため息が吹き込まれる。
「本山。パスは真面目に受けてくれ」
「真面目に答えているつもりだけどな」
「人に、期待することにした」
  つむじから目をそらして、ぐっと見上げる。飛行機が大きな音を立てて青に白の直線を引いている。
「おまえは人に対して何も期待していない。そう言われた時、ついかっとなってしまった。話し合ったり釈明したりすることを思いつかなかった。手癖——盗癖のように、人を殴った。図星を指されたも同然だ。少しでも他者に期待できるなら、そんな手段はとらない」
  ばたばたとした足音が、飛行機に連れ去られてしまったかのように消えていた。
「期待をしないのは、自分のことしか見ていないだけだ。他者がいない。狭量なんだ。自分のことしか受けいれられない。たとえそれが相手を認めることでも、相手が喜ぶことでも、恥をかく可能性があるなら絶対にしない。そこまでして守る程度の人間でもないくせに」
  聞きながらその場の土をじりじりと踵で踏みにじる。いずれは消えてだれの痕でもなくなる跡だ。
「そうやってわかっているていで振舞ううちに、わからないうちに嫌われてゆく。難を知るくせに改善しないのは他人を見下しているからだ。自分の欠点なら許されると思っている。偉いから。偉くないのに。嫌われて当然だ。親しい、本当に親しい友達がいないのは社会や環境の問題ではなく個人の問題だ。ましてや家庭の話なんて、違う。だってもういい歳だ。考えることができるし、ここでのふるまいは親によって要請されたものじゃない。決めている。引き受けている。いつもここで悪いのは自分だけなんだ」
  強く縛る音がした。
  彼はまっすぐ立って、首だけ少し傾けてこちらを見る。
「本山。他校との試合があるんだけど、見に来ない?」
「当日になって腹痛になるかもしれないから、安請け合いはできないな」
「それが真面目の限界なのか」
  鳴ったチャイムに急かされるよう、走って校舎に戻る。私のことなんてお構いなしに駆け抜ける彼の靴から、ひょろっと投げ出されたひもが靡いてはぺちんぺちんと靴の側面を叩いている。顔を上げればふわふわと体操服が彼の背から浮くように揺れ、しわの形を変えてゆく。
「本当に、ぬるいなー」
 
  新しいことを教えてくれるのは、富田くんかもしれない。
  小刻みにクリック音が響いたのち、ディスプレイに表示されたゲーム画面がガラリと暗転する。埃一つない磨かれた黒に、富田くんの何とも言えない表情がうつる。数度のまばたきの末、彼はベッドに座る私の方に体を向けてはにかんだ。
「えっちなものに限らないんだけど、ゲームの面白いところは入力結果が出力される瞬間だと思うんだよ! 画面が切り替わるでも、数値が上がるでも、分岐するでも、なんでもいいけど。自分がやった操作によって反応があるってことが喜びだと考えてて!」
「うん」
「考えててさ」
  ぽつりと呟いたあとで、富田くんは膝の上に拳を作った。
「料理とか掃除とかも、結局そこに行き着く。やっぱり俺は報われたいんだよね。すぐに結果が欲しい。目に見える形で、努力した成果がでなきゃ耐えられない」
  表情が少しだけこわばったのち、引きつるようにして笑みが作られる。わずかな痙攣が起こり、不自然な笑顔もぱっと消える。何も残らなくなる。虚空を見るように彼と私が向き合っている。
「環境が変わったから、うまくいったように見える。小鳥や風間みたいな喧しいクラスメイトに囲まれて、なんとかできている。ああ、それで済むなら良かった。なら次につまずいた時も良い環境を引き当てるまで渡り歩いてゆこう——そうやって自らの入力を何ら改めることなく、自分の都合のいい出力結果だけを求めるとして、その先に何があるんだろうね」
  流れていたゲームの音楽が、つなぎ目もなくループした。
「飾り気のないありのままの自分、という名の変わる気がないだけの怠惰な自分を、それでも受け入れてくれる人たちがときどき、憎い。憎い以上に俺が、俺自身が、この情けなさが……嫌いで」
  萎む声量に合わせてふかぶかと下がっていた彼の頭が、勢いよくあげられる。視線がぴったりとはまり、いつか見たいたずらっぽい表情が私を固定した。
「嫌いだったんだけどさ、こうやってゲームをやっていたら、聞いてよミユちゃん。クソゲーばっかりなんだよ! 本当にもう、商品のレベルを満たしていないぐらいの、バグ、手抜き、誤字脱字! 一般の本や雑誌、マンガや映画よりはるかに高い価格設定で作品内の演出技術は大して進歩しないのにアクティベーションの技術革新にだけは力を入れた挙句に平気で発売は延期するしイベントCGの構図はトレースするし他社のシナリオをコピペするしだいたい設定がアニメ化した人気ライトノベルのパクリだしでもう、言葉を失うほど、クソなんだけど、なんだかんだ俺や他のやつが仕方ないなあと思いながらも買ってしまい、悪しき業界のやり方もさらに腐敗を進行させながら続いてしまう。何もかもが完璧だから存続するわけじゃないんだ。長く続いているものでも、よくよく見ると妥協や諦めがあって、見逃されている。そう考えたら、さ! 俺も、今のダメな俺を良いと思って受容してくれる人たちのために、このままでいようと思ったわけね」
 
  まったく違う価値観が存在することを、容赦なく突きつけてくれるのは神園さんだ。
  閉じた掃除道具箱の扉をじっと見つめたのち、神園さんは私の方にふんわりと振り向いた。
「コンビニエンスストアで、偶然、北上さんと会って」
  神園さんの背後でナミちゃんが田代くんの腕にぶら下がろうとしていた。腕を曲げてぐっと拳を固める田代くんに対し、ナミちゃんはおそるおそるといったようにL字の腕に手を巻きつけて、ぴょんと飛び跳ね——そのまま着地する。
「いい機会だと思って、帰り道を歩きながら話したの。北上さん、そろそろ真面目に教室に来ようって。保健室登校では問題の本質は改善されないでしょう。今はそれで耐え忍ぶことになるのかもしれないけれど、いつか絶対に後悔すると思うの。基準を満たしました、それで認められました、はいおしまいなんて、何の思い出にならないよ。って」
  そのまま膝を曲げてなきゃだめだろ、笑う田代くんにむくれたナミちゃんは、失敗から間髪を入れずにぴょいとジャンプして、そのままくいっと膝を曲げた。よろめきながらも田代くんはナミちゃんを片腕だけで持ち上げる。
「そうしたら北上さんがこう言ったの。今の環境が改善されない以上、そこにいてもストレスが溜まるだけだから。そもそもあいつらおかしいんだよ。最初は笑ってたくせにさ。変な子とか不思議ちゃんとか、意味がわからないとか怖いとか言い出して。本当のことを言っただけだって。別に辛辣なことを言ったわけでもないし、率直に述べただけ。感情的ではなかったと思うし、むしろ論理的だったと思う。なのにあいつらはさ、わたしがまるで人道に悖る話をしているみたいに恐れる。それはたぶん、真実を知るのが怖いんだ。本当を交わし合うことができないんだ。実際に目を背けるんだ。弱いから。だから正しいことから目を背けて、常識が今日も常識かどうか確かめ合うような、空疎な会話を続けるんだ。そんなところにいて、意味なんてない。社交辞令、謙遜、おべっか、バカみたい。因習、もはや昔あった意義を失った形式だけのそれ。あまりに非合理的で付き合ってらんない……って」
  先に耐えられなくなったのはナミちゃんの方だった。ぷるぷると震えた足をがくっと床につけて、田代くんの腕から手を離す。汗を掻いたとばかりに、ナミちゃんは前髪を巻き込んで額をこすこすと手の甲でさすっていた。
「面白い人なんだね、北上さんって。そんなことをまくし立てられたら、神園さんも呆気にとられたんじゃ?」
  視線を戻すと、神園さんはなぜだか俯いてもじもじとしていた。
「そ、それが、ちょっと、カチンときちゃって……いろいろ、言っちゃったの」
「え?」
「みんな、みんなね。本音できちんと話してると思うの。それが私相手でなくても、だれかとだれかの間を見ればわかるよ。それぞれ真剣に、誠実に付き合ってる。だから、本音そのものが受け入れられないわけじゃないんだって、拒絶されるのは本音も建前も関係なくさらけ出されたものがあまりにも醜かったからだって……相手に敬意を示さないから当然のように嫌われている人が、思いやりの末に関係を共有している人たちを侮辱するのが、どうしても許せなくて、言ってしまったの。北上さんの言うとおりね、暗黙の了解や約束事は論理的に正しいから蔓延るわけじゃないよ——ある事象に対してそれが論理的に正しいと納得できる人を選別して仲間として認めるための手段が、約束事なの。これは例えば校則もそうだよ。在籍する生徒に校則を守らせるのではなくて、校則を守る人が生徒として在籍できるの。だから酷い校則違反をした人は退学させられるでしょう。それが義務教育を超えた私たちに課せられる、社会への参加の仕方。ルールが気に食わないなら、やめればいい。自分が納得できる集団の中で生活すればいい。もし、それでもあなたの居場所がないと思ったのなら、あなたが新しい論理を組み立ててその賛同者を集めればいいんだよ……実際はそこまでやらなくても、優れたルールには必ず既存のルールを改定するための項が設けられている。学校でいうところの生徒総会やホームルームの時間がそうだよね。だから新しく場所を作り出さなくても、今あるルールを変える努力をするだけでもいいの。あなたの友達やクラスメイトが、いくらあなたのことをおかしいといっても、本当に理にかなう意見であれば一緒に戦ってくれる人はできるはず。でも、あなたはそういう努力をしなかった。説明してもわかってもらえない、それは相手が常識に従順で頭が悪いからだ、それならもう説明なんてしようがない、誤解が重なって教室に居づらい、でも生徒であることはやめたくない、環境が悪いだけだから、といっても親に頼み込んで転入試験を受けてまで学校を変えることはしない……真実から目を背けて、ごまかしているのはあなたの方。ルールを破っておいて、そのルールを守る仲間としての庇護を受けるのは、あなたが弱いから」
 
  考えそのものは尊敬できると考えながらも、どうもあまり見習いたくないと忌避したくなる人もいる。
「意識高い系と意識高いは違う言葉らしい」
「へ、へえ。そうなんだ……」
  廊下の掲示物にはられた過去の部活勧誘ポスターをばりばりと剥がしつつ、十市くんの方を盗み見る。彼はぼさっとした髪をぽやぽやと手で撫でつけながら、からころと画鋲入れを傾けていた。
「意識の高い人間は結果を出していて、意識高い系は結果を出していない。意識の高い人間はつねに理想を追い求め他者に関心がないが、意識高い系は己の意欲の高さをもって平気で人を見下す。意識の高い人間は尊ぶにふさわしいが、意識高い系は単なる屑……本山さんはどう思う?」
  雑談してないでポスターを剥がそうよ、とも言えずに肩をすくめる。
「そもそもそういったワードを使わないようにしているから、考えたことがなかったな。話を聞くかぎりだと、意識の高い人は凡人の考える理想像みたいなものだよね。普通の人が天才を好きになる構造と似ているかも。劣等感を抱えている凡人が、それでもとにかく身近な他人には負けたくないと考えて、具体例のない、もしくは権威や知名度があって明らかに一握りとわかる天才を祭り上げる。このぐらいの天才でなければ人として素晴らしくないのだと主張することでハードルを上げる。もちろん自分はそのハードルを越えることはできないけど、周囲の人間も乗り越えることはできないのだから、それで気持ち的には負けずに済む、みたいな。もしそうだとすると、意識高い系という言葉を侮蔑で使う人は、本当に意識が高い人が近くにいたところで、あなたは意識が高いですねと褒めないんじゃないかな」
「本山さんは近藤さんの友人なだけあって面白い発想をする」
「うーん、近藤さんには負けてると思うよ、さすがに」
  プラスチック製ケースに画鋲がぶつかっては重なり、散らばってはぶつかる音が断続的に聞こえる。
「私が疑問に思ったのは、もっと初歩的なことだ。意識の高い人間と意識高い系の違いは、根本的なところをいうと結果にしか差がないのではないかと思う。だとすると、仮に意識高い系が結果を残したら、その人の言動はどのように集約される? 意識高い系から意識の高い人間になるのか? それとも本山さんがいうように、意識高い系と人を侮蔑するような人間は、他人の成長に目を背けて何も言わずにいるのか?」
  剥がしたポスターを床に重ねておく。ほとんど私が剥がしたものだと思いつつ、十市くんの作業領域にまで入り込む。
「結果が伴っていないから意識高い系、結果が伴っていないから意識が高いのはカッコ悪いという見解であるなら、それは消極的な誤りだと思う。やる気がなくて結果を出せる人なんてほとんどいない。フィクションではいつも気だるそうで常識を知らない天才という像がよく支持される。もしかすると実際にそういう人間もいるかもしれない。だけどあくまでそれは作り物語だ。現実に何かを成すためには、こつこつとしなければならない。はじめなければならない。その前に、やり方を知らなければならない。学ぼうとする意欲がなければならない——そうしたモチベージョンは個人の中で完結させるべきだ、という意見は高潔でいるようでいて、それを理由に他者の要請そのものを批判する場合はただの怠惰だ。向上のための心得や手続きは共有した方がよいに決まっている。自分が良いと考えたメソッドを独占するのは、あまりにも利己的で恩知らずだ。他者からの影響で分け与えられた向上心を育て上げ、その余剰を再び他者に譲ろうとする道徳を、結果がないからと唾棄するのは本質が見えていないし、そもそも単なる権威主義にすぎない」
  さっぱりとした掲示板を一望し、等間隔に空いた穴ぼこに爪をひっかけて、名残のひとときを味わう。十市くんといえば一仕事やり終えたと言わんばかりの顔つきで、どっしりと立っていた。
「意識の高くない彼らに教えてあげたい……そこまで結果にこだわるなら、墓でも崇めていればいい。そしてやり方は自己完結するべきだという思想に従って、死ぬまで人に尊敬されようと思うな」
 
  それに、私には運命の出会いがあった。
  歩きながらわずかに動いている口を指摘すると、友原くんは制服のポケットから口臭対策用との効用が書かれたガムのパッケージを取り出した。手を出してと言われてそのとおりにすれば、パッケージから転げた粒状の青白いガムがたなごころのしわに落ち着く。
「思春期の間は完全に治る見込みないらしーよこれ。やーね、これじゃ彼女が出来てもキスできないですよ」
「不治の病だね」
「し、思春期の間だって言ったじゃーん」
  傷心のポーズを見せる友原くんを無視して、もらったガムを口にわっと放り込む。爽やかな味がしたが、後に引きそうな不味さもちらついた。
「思春期に口臭がひどくて彼女が出来てもキスができないという想いが、友原くん固有の不治の病なんだよ。その想いだけで友原くんを逆算できるんだから、不治ってすごい」
「……褒めてます?」
「かつてない以上、褒めてる」
 
  感情や感覚を抜きにして、本当に分かり合える人間は一人しかいない。
  彼から差し出された、折れた線まで写し取ったコピーを受け取って、私はそこに書かれた一文を音読した。
  『私はだれひとり幸せにすることもできない人間です』
  まるでそれで十分というように、細部まで汲み取ったコピーには消しゴムで擦れた一画すら写っていない。
  黒板をチョークで叩く音がした。顔をあげれば、すぐに目があう。東間くんはチョークを置いて、手についたらしい粉を教卓にこすりつけた。
「最期の言葉でさえ、こんなありふれたものだと思うと嫌気がさした」
  どのような経緯でこれを手に入れたのか、東間くんは教えてくれなかった。もしかしたら彼の友人の両親が、何かしらの意図があって遺書をコピーしてやったのかもしれないし、だれかが遺書を盗み取ってコピーしてまわったものを手に入れたのかもしれない。いずれにせよ東間くんが読もうとして読んだものではないのだろう。
  そしてこの文章を確実に読んだであろうもう一人は、これをありふれた言葉だとは捉えなかったはずだ。
「気持ちなんて共通項の中でしか伝えようがないから。ありふれたものが伝える時の限界なんだよ」
  こちらを不思議そうに見つめて瞬きをする、その澄んだ瞳を見つめ返す。
「たとえば、相槌がソイソースで質問の回答がまとはずれで同じことを言っている人の同じことを言っている人を見つけてキレのよい短めの文句で己の個性を主張して待ち望んだ手紙にみなに宛てられた関係のない言葉が書かれていた私の気持ち、東間くんにはわかる?」
「何言ってんだおまえ」
  じとっとした東間くんの視線に、私はからっとした笑いで答えた。
「言葉なんて結局、たとえ話でしかないよ。どんな想いでもあらわすなら百万字だって足りなかっただろうから。実際にあらわされた言葉そのものに考察する価値なんてないよ」
「バッサリ切り捨てすぎだろ」
  そうかもしれないけど、と私は口元を手で軽くおさえる。
「言葉はだれでも借用できる。偶発性もなく完璧に再現される。意図的でなくとも言葉は無限にあるわけじゃないから、組み合わせの数は決まっている……だとしたら、私たちが理解しようと努めるべきはその結果ではなく、それを導いた過程なんじゃないかな」
  言葉を切って、彼を見る。東間くんはこちらを向いているようで、私の背後にある机や椅子たちに目を向けているらしい。つい最近、同じことをした私にはその理由を導くことができる。
  興味のない他人の一方的な長話は、まだ知らぬ長大な物語の名シーンを作為的に切り取って渡されたみたいで、腹がたつ。
  そんなことに憤るぐらいなら、もっと積極的に踏み込んで、知らされる前に知っておけばよかったのに。
  文脈がわかれば、その興奮を分かち合うことができたかもしれないのに。
「自分の人生の中で絞り出した言葉なら、どんなにつまらない詩でもその人だけのものだよ。平凡な死でも、その人はきちんと生きていたんだよ」
「おまえは、何にも知らないくせに」
「私は知らないけど、東間くんは忘れているだけでしょう」
  そっぽを向いた東間くんの、口元が引き締まり、緩んだのを見た。
「覚えているわけ、ないだろ」
 
  私は覚えていると——あの人のことを思い出す。
「佳美優。人生は牢獄だ。逃れられぬ定めだ。朝に反射的におはようがでるように、おはようと言われて反射的におはようを返すように、おまえがこの世におはようをした瞬間から、あとはこだまが消えてなくなるのを待つだけだと決まっている」
  気づいたときから彼はそこにいた。豆粒ぐらいのころから私を知っているというのが彼の脅し文句で、意味のわからない説教をされてはよく泣かされていた。私が泣かなくなったころには、少し言い方も優しげになり、叔父さんもおじさんになりはじめていた。
「人間は俗物になるしかない。他者に利用されないために自分が何をしたいのか何が欲しいのかを突き詰めたところで、極まるのは虚無だけだ。他者評価への依拠を本質としている虚栄心を排除してみろ。食う寝るオナニーしか残らないからな。さらにいうとオナニーすらいらん」
  子どもの世話をしてくれるから助かる——叔父さんに対する母の感謝はだんだんと冷淡な態度に変わっていった。
「虚栄という無意味かつ無価値なものにこだわるからこそ世界はバリエーション豊かに、複雑になる。あるものがほしいと思いながら叶えきれず、代替手段を講じた結果、あるものをストレートに手に入れるより偉大な副産物を世界にもたらした、その集大成が今だ。そして、今が終わりのときだ」
  父は何も言わなかったが、私と叔父さんが話しているのを見て、不満そうな顔つきになることがあった。
「初めて生まれてきたものが、人生とは副産物を選ぶゲームなのかと間違えるぐらいに副産物がありあまっている。ところでこの副産物はどれを選んでも本筋ではないということでは一貫していて、実質その選択には意味がない。が、人々は副産物の選択こそが己の人生を豊かにするものだと盲信している。選択肢を広げるために努力をすることを美徳とし、あの選択が最良である、この選択は劣っていると優劣を争い、翻弄されてゆくが、もちろん最初から優劣もなければ本題でもないのだから、そんな苦悩には意味がない。意味はないが、俗人としてこだわるために、苦悩のバリエーションが豊かに、複雑になる。ところが昔とは違って、この苦悩やそれに対する対抗手段は全体に関係しない。多くは個人の問題として収束し、または個人間の問題として片付けられる」
  叔父さんは何をしている人なのかと、多くの人に尋ねられて狼狽えた。
「俗人はこの個人の問題を己の個性とし、世界の範囲とする。選んだものと自分と世界を一対一対一の関係とみなしている彼らは、選んだものが違う他者に対して住む世界が違うと表現し、関心を持たないどころか軽蔑さえする。助け合うとか配慮するとかいったことは一切考えない。なぜなら世界は個人の問題で満ちていて、異世界の問題を救うだけの余力が残っていないからである」
  私が叔父さんに直接たずねれば、いつもはぐらかされ、筋の通っているんだか通っていなんだかわからないことを延々と聞かされた。
「そのうち、その生き方が慣れてきた彼らは、異論を唱える大きな世界の小さな住人に対して次のような嘲笑のやり方を身につける——あらゆる世界があって、あらゆる人がいるのだから、尊重してあげましょう。そうやって他者に対する己の無関心や非力さを正当化するくせに、虚栄心のために他者の存在を必要とする。そんな醜い怪物は大きな世界の中に存在する自分の世界という名の檻に閉じ込められ、ひとりのまま、死ぬしかないんだ」
  叔父さんは、年下以外には丁寧な喋り方をしていて、特に初対面の人には好印象を与えたようだ。
  中学・高校ともに有名な私立に通っていて、あの頃は私の父より偏差値が高かったんだと話していた。
  手前と奥で分けて入れられる本棚には、手前に背表紙の立派なものが並び、漫画や白っぽい本は奥に収納されていたが、どれにしてもそこまで読み込まれた形跡がなかった。
  同性の友達が少ないように思われる。
  就職活動に関するニュースを眺めて、自分だって就職活動なんてしていないがこうやって生きていけるんだから、そんなに悩むことないのにと語っていた。
  冗談で人が天才だと褒めたとき、自分は天才ではないし凡人として堅実に生きていたいと慌てて否定したが、天才に関する書籍を熱心に読んでいた。
  弁が立つ人と議論をしたとき、自分はそうは思わないですけどね、とだけ言ってなんの説明も付け加えなかった。そのかわり、どうして己の意見をそうも押し付けたがるんだろうと、ぽつりと相手の聞こえない場所でつぶやいていた。
  多趣味だが、その趣味を極めている人たちの集まりに参加するよりかは、私に見せびらかすことを好んだ。
  なにかをするよりはマシだ、何かをしなければいけない人よりマシだ、が口癖だった。
  新しいことをはじめる、と叔父さんはよく言った。きちんと終えたところを見ることはなかった。
  義務や責任というものを過剰に嫌悪していて、他人が律儀にルールを守っているのを薄笑いで見守っていた。
「意味がない。意味がないんだよ……佳美優。ご飯を食べて青空を見て眠る、それだけで人は満足できるのに。悩めば悩むほど幸福になれると勘違いして勝手に苦しんで……好きなものがあっても、意味がないんだよ」
  このような何もないだけの人を、私は、これからなにかが起きる人だと、すでに出来損ないの成果が立っている人よりも未来のある人なのだと、信じていた。
  なんの話がきっかけだったのかはわからない。ただ、家族と叔父さんでテレビを見ているとき、父が突然にテレビを消して、おそらく何かコメントをしたのであろう叔父さんの方を向いて、立ち上がった。
「下手に器用だから頑張る気にならなくて結果がでませんでしたあ。生まれつき要領がいいことに慢心していましたあ。自分と違って地頭が悪い分それを補おうと一生懸命に頑張った人は偉いと思いまあす。ねえ?」
  何もかもが滲んでいた。
「ろくに受験も就職もできなかった人間が器用貧乏語ってんじゃねーよ」
  きっとそれは、長年ハッキリとそう思いながら、しかし言わないでおこうとしたものに違いなかった。
「おまえは運が悪かったんじゃない。それが実力だったんだよ」
  母がわずかに頷いていたのを、見てしまった。
「器用な人間はああああああああああ、そんなことでつまづいたりしませええええええええええん」
  目を見張って唇を震わせたのち、そのまま顔を伏せてリビングから飛び出したその背を見て、私はただ呆然としていた。
  父が怒鳴ってから、叔父さんは少しの荷をもって家をでてしまった。
  棚の裏に隠しておいたお金がなくなっていると、母が憤怒していた隣で父は置き去りにされた叔父さんの荷物について私に扱いを一任した。
  CD、DVD、雑誌、新聞、スクラップブック、レプリカユニフォーム、食品玩具、目覚まし時計。
  それのどれもがどうして集めたのか、一貫した熱意の見えないものばかりでどれも埃かぶっていた。
  ガラクタ類をすべて空き段ボールに片付けたあと、何か良いものがあればもらっておこうという思いで、叔父さんの本棚に手を伸ばし驚愕した。
  叔父さんの言っていたことは、すべて誰かの受け売りでしかなかった。
  特徴的な言葉選びや例えさえ模倣していて、それを示したいわけでもないのに出典が明らかだった。
  自信満々に語ることができたのは、権威者がそう言っていたからだった。
  言っていることがちぐはぐに感じられたのは、別の文脈にある発想と発想を単語の響きやニュアンスだけで無理やりつなげていたからだった。
  語る思想が人生に反映されていないのは、根を切って自分のものにした思想を植え替えたところで土壌に根付くことがないからだった。
  私はそんな人の、虚構の背を追いかけてここまでやってきてしまった。
  なんだった。
  なんだったんだろう。
  私が今まで信じてきたものは。
  歩いてきた道程は。
  現在地点は。
  意味がなかったんだろう。
 
  小畑くん。
  意味がない。
  私にはあなたを好きになる理由がない。
 
「歩いた道のりはとり返せないから、もっと、慎重に考えたほうがいいよ」
「そう?」
  立ち止まる。ぴちゃりと地面が音を立てる。小畑くんは十歩ほど進んで、おろっと私の方を振り返る。
「私は小畑くんが想像しているよりよっぽどチープだよ。何にもなくて、空っぽで、気休めにもならないと思う」
「本山さんは物語に、この物語は面白いですって書いてあるから、面白い物語だと思う?」
「それは——」
「それとも、この物語は面白い物語だよって薦められたから、面白い物語だと思う?」
  そう思う人も、この世の中にはたくさんいるだろうと思った。
「物語が価値を決めるんじゃない。物語が面白いのか、決めるのは読み終えた人だよ! たとえ何もなくて空っぽでなんの意図もない物語だとしても、読者からすすんで意図を見出すんだ」
「どうして?」
  思わずとびでた私の問いに、彼はまっすぐこちらを見たままはにかんだ。
「好きだから!」
 
「えーっと、それで。ちょっと順序を間違えたんだけど、あの、おれ、物語を考えて」
「何の?」
「本山さんのための、即興物語!」
  考えたのか、即興なのか。それ以前に。
「小畑くんって、本当に距離感をつかむのが下手だね」
「……うん。おれはやっぱり、楽しそうな本山さんが一番好き」
 
  拝啓、叔父殿。地獄はあついですか? 北半球は今、とても春です。そして私にも春が訪れようとしています。
 
「ああああああああああ、なんで入学式に演劇部が呼ばれるのかなあ? 数々のイベントを経て生徒会はいよいよ照明の使い方を覚えなかったよ! なんなの! そもそも入学式にそんなに照明っているの? お偉い人の頭のライトでオールライトでしょ! ウボア」
「そ、そうか。近藤さんも大変だね。ところで入学式、私も代表の一人として呼ばれることになっていてね……もし入学式が終わったあとに暇があるなら」
 
  かつてあなたは私たちを産まれながらの死刑囚だと称しましたが、まったくその通りだと思います。
 
「新入生がみんな秋永の方に行くぜ!」
「男だってベンチの男よりは現場でカッコイイ男が好き!」
「そう、とにかくみんな男が好きなんです。そういうわけで歌います。タイトルは、風間バースデー」
「風間の誕生日って違う日だったような?」
「これだからとみとみは……風間は母にも父にも子どもにも老人にもなれる可能性を表した単語だから。毎日が風間の誕生日でもまったくおかしくないね」
「ハッピーババババースデー風間ーハッピーババババースデー風間ーふぉんふぉんふぉんふぉんふぉーん秋永は死ね〜」
「死ね〜」
「死ねと言われても」
 
  私たちは監獄には押し込められているし、死刑だっていつも人には見えない経緯で下される。
 
「アタシの机の引き出しにライトノベルを詰め込んだのは一体どこの後藤だ? ええ?」
「えー、いいじゃないですか。エロっぽい表紙のやつはきちんと鞄のなかに入れておいたんで……」
「殺すぞ」
「田代くん、みてみて〜。ありさちゃんと後藤くんが面白いことになってるよー」
「本当だなあ」
「だいたいこんなにギチギチに詰め込んで本を傷めたらどうすんの? アホ? 後藤? デスる? デス?」
「タスケテ……タスケテ……」
「風流だねぇ」
「春だなあ」
 
  だというのに、死刑囚である私たちが健やかでいられるのは、その監獄があまりにも広く見えるのと、「ひょっとすると自分だけは脱獄できるかもしれない」という微かな希望があるからでしょう。
 
「ちょっとあんた、女装してテレビに映ったって聞いたんだけど」
「バッカッカ、情報弱者乙〜。僕が出たのは生放送だし」
「ななななな生放送でテレビに出たの!? なんで姉ちゃんに教えないのよ!」
「いや、だから違うって。ネットで配信している生放送だって」
「ネット? ネットってインターネット? 公営じゃないやつ?」
「公営……ではないと思うけど?」
「なーんだ。大したことないじゃん。うわあ、友達に自慢しなくてよかったあ」
「……姉貴がゴリラで頭が痛い!」
 
  そういう希望も、またはその裏にある絶望もすべては気休めです。
  思考しているということに安堵して何もなさから逃げているだけです。
 
「新学期早々、委員長に絡まれるなんて」
「もう私は委員長じゃないって。それに北上さんってずっとひとりだし、話しかけていいかと思って」
「神園。友達すくないでしょ」
「うん。だから友達が少ない同士、一緒にご飯たべよう?」
「…………腹黒」
 
  しかし最近になって、私は少しずつ考えを改めました。
  改めたというよりかは、もともと気づいていたがあまりにも単純な発想であるために知らないふりをしていたそれを再発見したのかもしれません。
 
「ハ——先生、先生! 変態に絡まれたのですっ!」
「なんだって?」
「つねに喉と心を震わせるか弱き放送部員の肩に手を回してきたんですよ! この変態が!」
「愛する母校に帰ってきましたよ、先生ー!」
「誰だおまえ」
「いやいや、俺ですって。俺。高橋界でも真面目さがウリの高橋ですって」
「この学校には高橋が腐るほどいるからな」
「およよーっ、その発言、教師としてどうなんでしょうなー? ひとりひとりの高橋の高橋権を尊重していないのではないですかぁ?」
「腐った高橋がいると善良な高橋まで腐ってしまうからな。そういう意味じゃ、おまえが無事卒業できて先生も嬉しいよ。卒業、おめでとう」
「教師とは到底思えんこの発言! もうこいつはハゲ教師ではなくて単なるハゲだ!」
「通報するぞ」
「逮捕の瞬間を撮影します」
「ナレーションをつけるのです」
「ゴメンナサイ」
 
  出会ったものにありふれた名前がついていたとしても、出会いは汚れない。
 
「あっ、東間じゃん。何してんの?」
「何も……最近、小畑がつれないからな」
「ふうん。まーもう受験生だし、進路とか音楽性の違いとかいろいろあるもんな。というか東間、小畑以外に友達いないの?」
「……」
「そ、そこまで睨まなくてもよくない?」
「いや、なんかその言葉、前にも聞いた気がしたから」
「他のだれかにも言われたの? よっぽど小畑以外友達がいないんだなー」
「…………」
「その無言で遠ざかるのやめて! 示唆的で悲しくなるから!」
 
  すべてに意味がなくとも、自分の好きなものを好きでいようと思います。どうせ破滅する関係も好きなら大切にします。たとえ二度と届かない手紙でも、好きだから、きちんと書くようにします。
 
「それで、ヒロインに一目惚れをした主人公は、何とかヒロインに告白しようとするんだけど、さっきも書いたとおりヒロインが動きまくるものだから、主人公は背中すら追えないんだ。だから一応、物語の主人公はおれになっているけど、ストーリー自体はヒロインを中心に進めていく形でさ。まだ食べたことのない珍味を制覇しようと旅するヒロインがイベントを通じて各地にいるライバルキャラと親しくなる——と思いきや、最終的には当たり障りもない会話を冒頭にしただけのおれと本山さんがくっついてなんとなくハッピーエンドっていう構成を考えてる」
「小畑くん小畑くん。主人公のことをおれって言ってるしヒロインのことも本山さんって呼んでるし締め方が雑だしなんとなくハッピーエンドって説明が絶望的にダメ」
「物語に想いを託すのって楽しいね」
「いやあ、もう、この人って本当にダメ」
 
  何? すべてが無意味なのに好きなものなんてそもそも作れるのか?
  叔父殿、ここでミステリーの解答です。
  あなたはすでに気づいていたのではないでしょうか。
  生まれついたばかりの死刑囚である私のオムツを替えたその時から。
  好きは意味より先行する、と。