カイコガ

男子高校生が小説を書いたと認めるオンライン小説です。

カイコガ

 文芸部は書く人間を求める他、読むだけの人間をも許す。しかし小説は彼らの間でつねに愛されているわけではない。だれもいない静寂のなかで、床に置かれた攻略本、新書、地図、成人向け雑誌、料理本、絵本が山になって眠っている。机は僕と柏木を隔て、椅子は僕たちの重みにぎしっと音を立てる。人の少ない乾いた部屋が彼の言葉を響かせる。「物語が人生を豊かにする」続きが彼の唇を震わせたが、瞳が僕の顔をとらえた時、開いた口は静かに閉じた。
「笑いやしないよ、話してみなよ」
「小説家にはなりたくないが、小説を書きたいのさ。わかるか」
「わかるとも。吹奏楽部の連中もきっとうなずくに違いないよ。でも野球部はどうかな」
 ドラフトは夏の大会を終えた三年生に素振りの勇気をもたらした。全校応援は僕たちをぐったりとさせ、たまに高校野球への憎しみを抱かせた。振り回されたタオルから汗が飛び散る。「打つな、打つな、走るなー!」思い出は僕を懐かしくさせる。
「だけど小説を書いていると、周囲はおれを小説家志望だとはやし立てるわけさ。それで部誌があまり手にとられていないとわかると、残念だったなと肩を叩く。こっちはそんなこと気にしてないというのに……だれに読まれなくても、書きたいと思うのはそんなに変か?」
「情熱はえてして理解されないものだよ」
「そう、おれにだって情熱はある。でも本気でプロを目指しているやつからすると、趣味として全力でやろうとする人間ははんぱものらしい」
「天野にそう言われたのかい」
 見開かれた目と半開きの口は、僕に笑いをもたらした。
「わかるとも」

 勢いよく開かれた扉が僕らの注目を集めた。「おい、窓を開けろよ」天野の第一声は直進し、確かに窓にぶつかって跳ね返った。
 僕の左隣が天野の大きな体で埋められた。ふう、ふう、と吹きかける音が天野の指へと目を向かわせる。窓とその鍵は乱暴に開けようとした不届き者に復讐を果たしたらしい。三角の目がこちらを捉える。ふっ、ふっ、ふっ。埃が舞う。
「俺だって遅れたけども、でも何だ。この人の少なさは」
「書くのに忙しいんだよ」
「どいつもこいつも書かないだろうが。前に原稿を出したのも四人ぐらいで、そうだ。おまえ、今度こそ書くんだろうな」
「書評って想像以上にむずかしくて……」
「だったら詩でも掌編でも何でもいいから書け。少しは手伝え。締め切りも守れ。部長命令だぞ!」
 唾が僕に襲いかかる。「じゃ、副部長命令だ」こちらを睨みつけていた天野の顔が前を向いた。
「書かないなら今度の原稿を読んでくれ。おれと天野と、あとは斉藤ぐらいか。葉ちゃん先輩がやっていたみたいに、誤字脱字や文法上のあやまりに赤を入れるだけでいいからさ」
「各自でやればいいだろ。ただでさえ書くやつが少ないんだ」
「先輩に入れられた赤の数を忘れたのか?」
 柏木の言葉は天野を立ち上がらせた。パーの両手が机を鳴らし、器用に立てられていた鉛筆を倒した。
「先輩先輩って、もう引退しただろ。今は俺が部長で、俺がルールだ!」
「まるで暴君だな。きみが暴君なら、おれは秩序だ」
「なんでおまえはそうやって俺に突っかかるんだ。少しは協力しろよ」
「きみより部室に早く来て鍵を開けているし、原稿だって書くし、日報も記すし、最近読んだ面白い本も紹介する。いったいどこが非協力的なのか、見当もつかない」
「その斜に構えた態度だ」
「ふたりとも、争っても原稿はうまれないよ」
「争わなくてもおまえは原稿を書かないだろうが」
「吉屋に怒るな。きみを殺すぞ」
「おまえはサイコか!」
 鉛筆は転がる。

 乾いた咳が争いを止めた。「どうして開けっぱなしなの」斉藤の第一声はぽとんと床に落ちて、扉が閉まる音にかき消される。リボンは左側だけ極端に短く結ばれていて、彼女の右隣に座る柏木の目を奪っている。
「声、ずっと聞こえてた。斜に構えた態度で原稿を書かない吉屋くんを殺すとかなんとか」
「天野がむりやり吉屋に書かせようとするから、口論になって殺すだけさ」
「端折るな端折るな……」
 二分を要した説明は斉藤にあくびをもたらし、この大きな息継ぎは彼女に涙を流させた。
「副部長のいうとおり、添削係は必要。文章は何度も踏みならされてはじめて美しくなるから。でも先輩がいない今は私たちが一番上だから、もう少し積極的に参加してほしいという部長の意見もわかる」
 斉藤の指にもてあそばれて、鉛筆は面と面のぶつかる音を刻む。
「だから、まずは書いて、ダメそうだったら添削係になってもらう、とか」
 みなの視線が僕の口を開かせた。
「うん、そうだね。できるかぎり頑張ってみるよ」
 僕の返事がはりつめていた空気をゆるませ、彼らの緊張を解いたようだった。笑いが部屋に充満し、さらに僕たちの表情を和らげる。
「おまえが完成させたら、添削するやつがいなくなるな。みんなで回し読みするか」
「吉屋の原稿はおれが読むから」
「ありがとう。僕も君の原稿をチェックするよ」
「みんなで回し読みって言っただろ」
「天野くん、どうして立ったままなの」
「おまえが急にやってきたから、座る暇がなかったんだよ」
 そうして天野の椅子は床ごと軋む。

 国語の時間は電子辞書に内蔵された小説を読む暇を与えてくれる。あるいは、慣れ親しまない古語が気持ちの良いリズムで活用して、僕らをうとうとさせる。斜め前の席では、激しい貧乏揺すりが椅子のみならず机から筆箱までがたがたと震わせている。柏木の猫背はさらに丸まり、頭の影が手元を隠している。
 授業が終わる。貧乏揺すりは止まり、丸まりは角ばり、柏木の顔が僕に近づく。
「原稿は進んだか」
「授業中には進まなかったよ」
 考えないことさ、声はやさしく僕を撫でる。「天野はああ言ったけどさ、もし完成したら一番におれに読ませてほしい。何も言わないからさ」
「そうだね。だけど小説を書くとはかぎらないよ」
「この世に小説でない文章があるのか?」
 彼の手はひらひらと遠ざかり、あそび、おちつき、ふたたびペンを握る。

 人々の見解によると、文芸部と委員会は両立できるとされていた。部室は僕を歓迎し、天野の隣を選ばせた。三角の目はじっと対面に座る後輩を捉え、離そうとはしなかった。
「めずらしい組み合わせだね。何を話していたんだい」
「ああ、『カイコガ』の話をしていたんだ。阿島が気に入ったらしくてな」
 机にはかつて発行した部誌が一冊を除いて奇妙なバランスで積み重なっていた。残りの一冊は阿島と天野の間に置かれている。僕たちに顔を向けた部誌は、短編小説『カイコガ』のある一文を読ませる。

“その成虫は新たに食事することなく、幼虫時代に食べたものだけで生きてゆく。”

「先輩の先輩のさらに先輩なんですよね、この乙中京子さんって。なんで一作しか書いてないんですか? 三年分、読んでみたんですけどまったく見つからなくて。確か新入部員は最初の部誌に必ずプロフィールを書かせるんでしたよね。それもないんです。どうしてですか」
「という質問に『知るか』と答えていたんだ」
「プロフィールが強制になったのは今年からだよ。僕たちの代は任意だったから。卒業していった先輩方は読書会や外部への読み聞かせ会で活動実績を重ねていてね、部誌は文化祭や部活動見学会に合わせて形式的に発行するだけだったみたい。それでも引退の前に一冊ほしいよねという話になって完成したのが、それ」
 阿島の視線は天野に注がれ、天野の肘が僕の腕を何度もつつく。
「おまえのせいで後輩から失望された」
「まじめに答えないからだよ」
「ええと、つまり最後の最後だから記念に書いたってことですね」
「本当に最期になっちまったけどな」
「天野先輩、何を言ってるんですか」
 うなだれた天野の頭が、大きな音を立てて机を揺らす。
「吉屋、おまえが責任をとって説明しろ」
「死んじゃったんだよ、乙中先輩。引退直後に、不運な事故で」

 部室内にある二つの時計はどちらもアナログに一秒を刻む。
「なるほど、それで犯人は誰だったんですか」
「事故だって言ってるだろ」
「だって深刻そうな顔して言うんですもん」
「半年もなかったけど、一緒に部活していたからね。どんな死に方でもつらくなるよ」
 外に面した窓から通った風は、僕らの髪をさらりと流して、廊下側の窓まで抜けてゆく。
「非常階段から転げ落ちたと聞いた時は、変だなと思ったな。生徒には縁のない場所だったから。でも、それだけだよ。だれも悪くない死に方だった」
 ぺら、ぺら、ぺら……ページはだれの手を借りることなくめくられ、僕たちの悲しみに付き添う。
「そうですか。じゃ成就せずに死んだかもしれないんですね」
「成就?」
 さらにめくれようとするページを彼の指が押しとどめる。風はやがて弱まって、まきついていたページは彼の指からこぼれおちるように離れた。
「だってこれ、誰かに宛てた恋愛小説ですよね」
「そうだな」
「そうなの?」
 部室内にある二つの時計はどちらもアナログに一秒、二秒、三秒を刻む。

 物語は死んだ犬の埋葬から始まり、友人の指が切断されて終わる。大きく傾げた僕の首を天野の側頭部が押し上げて戻す。
「いったいどこに恋愛の要素が」
「吉屋先輩って人を好きになったことがないんですか」
「人並みにあるよ。でもこの物語の登場人物は主人公と友人だけだし、その友人も指が切断されたと書かれるのみで、どういう関係なのかさっぱりだよ。犬はすでに死んでいるし、カイコガは繭すら出てこない」
 阿島の丸い目がぎらりと光った。
「事実の列挙のなかにはたして恋心が存在しますか」
「何もないところよりは、おそらく」
「感じとる作品なんです。一行たりとも書かれなかったカイコガへのお手紙なんですよ」
「一行も書かれていないのに、なぜそうだとわかるのかな」
「題名がついているでしょう。カイコガさんへって」
 題名『カイコガ』は本文より大きめに印字されている。
「カイコガは登場しているだろう。冒頭にある成虫の説明がまさにそうだ。書き手は、人間の手によって管理され、帰る野生のない昆虫に想い人を重ねたんだ」
「へんな人を好きになってしまったんだね」
「文章や構成の難は否定できない。指示語はつねに違う対象を示し、よくよく読むと循環している。そう、この物語はひとりでに輪になろうとしている。矢を放った人間に時間差で矢が放たれるように。友人が指を失うのは、犬を埋葬するためなんだ」
「よくわからないよ」
 そうですよ、賛同は顎を突き出してやってきた。
「わかりません」

「何がわからないんだ」
「部長のやっていることはバラバラ殺人です。自分の思う形に各部位を組み合わせて、理想の像を作っているんです。もともとあったはずの肉片や流れてしみこんで取り返せなくなった血を踏みにじっているんです。そのすべてで構成されていたのに」
「そういう読み方もあるという話だ」
 再び吹きはじめた風が、僕のくしゃみを誘発させる。
「でも、食事だって味わい方がそれぞれ違うわけじゃないですか。白ごはんを咀嚼するように、ケーキを噛み噛みしたら生クリームがべっちょべちょったら、べっちょべちょ。それと同じで作品に応じて見方を変えてあげるといいますか……」
「あの作品で十回以上泣いたんだ」
 鉛筆の尻が天野の指によって机と出会い別れる。
「どんな作品でも……児童向けだろうが、エンタメだろうが、純文学だろうが、だれかの日記だろうが、ノンフィクションだろうが、ジャンル問わず一つの作品をあらゆる方法で楽しむ。それの何が悪い。そもそも、見方を変えるってどういう基準でやるんだ。作家が著名人だったらまともに読もうとするのか。表紙にかわいい女の子のイラストがついていたら頭を空っぽにして楽しむのか。評判を聞いて判断するのか。それはばらばら殺人と違って高尚なのか。先入観に囚われて、味わい方をいちいち変えるおやつはおいしいか」
 扉の開き閉まる音が、僕らと彼の別れを告げる。
 一瞬だけ広がったカーテンが、元の位置に収まる。
「なあ、もしかして部活にみんなが来ないのって俺のせいなのか?」
「情熱はえてして理解されないものだよ」
 鉛筆は転がる。
「究極的に、だ。究極的に素晴らしい作品とはどのような見方をしても楽しめるものだと思うんだ。その点じゃ『カイコガ』はただの駄作だ。俺をなんども泣かせて心臓を握りつぶすぐらい辛かったのに、それでもだめだ。技術的には粗いし、ストーリー性は皆無、設定も凡だ……でもわかってくれ。俺は冷淡でも何でもないんだ」
「わかるとも」
 雨に打たれて、鉛筆は止まる。

 くるくると回る斉藤の体は僕の目を回す。
「教室の掃除がよかった。拭いても掃いても誰かがすぐに上り下りする」
「踊ると埃がさらに舞うよ」
「踊らせないなんて、誰のための踊り場?」
 彼女の足はちりとりの持ち手を踏んづけてようやく止まる。ごみはこぼれ、渡り廊下から降りてきた風に運ばれる。
「ふざけていたばかりに、すべてを台無しにしてしまった」
「そこまで自分を責めなくてもいいよ」
「なら、吉屋くんはどう表現する?」
「事故だったとしかいえないよ」
 彼女の手がちりとりを傾け、僕の手が箒を握って床を掃く。
「先輩たちがいなくなって、今や私たちが部内の最上級生。でも吉屋くんの文章はいままで一文も読んだことがない」
 散らばってしまったごみがちりとりに帰ってゆく。
「斉藤は順調かい」
「アイディアは天から降ってくる。だから、書かせられるまで待っている。そしていずれ完成する」
 ちりとりは前へ、上へと進んでゆき、僕たちを渡り廊下まで導いた。彼女の持つ手はそのまま宙にまでのび。
「野生に帰りなさい!」
 ひっくりかえったちりとりから、ごみが落ちる。

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 一本の傘は雨から人間をふたりだけ救う。
「犬のおしっこがめぐりめぐって雨になっていると思うと、おれは傘のない生活に耐えられないのさ」
「なのに忘れたのかい」
「傘のある生活は、それはそれで動きづらくてな」
 暗がりを走る自転車が柏木の靴下を濡らして去ってゆく。呪詛の言葉は追いつこうとしたものの、途中で息切れしてとぼとぼと戻ってくる。
「おしっこだけじゃないさ。埋められた犬だってきっと体液をたれながしてしみて蒸発して雨になる。未だ見つかっていないばらばら死体もそうだぜ。だれかは言うさ。まるで洗い流すようだ! しかし事実は異なる。すべての業がすべてのものに平等に降りそそぐのさ! ところで、原稿は進んだか」
「考えてみたんだけどね。僕には書きたいという気持ちも、近づきたい理想も、天から降ってくるものもないんだよ。好きな本の感想文を書こうとしても、もやもやして言葉にできない」
いい方法があるさ、彼の角ばった手が僕の背中を叩く。
「『感想 もやもやしない 書き方』で検索してみるといい。感想でもやもやしない書き方についての情報が出てくるはずさ」
 そうして、僕の悩みはまだ知らぬ個人サイトに委託される。

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感想でもやもやしない書き方についての情報

目的
「もやもやする」「でもそれだけ考えさせてくれるから、傑作」このような感想がなぜ生まれるのかを想像し、感想で「もやもやする」と書かない方法を考えます。

(一)考えさせてくれる作品はそもそも傑作なのか
作品において「傑作」の解釈は人それぞれです。出来映えを一律の判断のもと数値化することは困難なので、各々が己の経験をもとに「傑作」であるか考えます。だから「考えさせてくれるから傑作」とは前置きがないかぎり「目玉焼きにはマヨネーズが至高」と言っているのとそうかわりありません。「~だから、傑作」という書き方だと「~」の部分できちんと理由を説明しているように読めますが、説明できていません。つまり単に個人の価値観の表明です。

「考えさせてくれるから傑作」の意図を想像すると、以下に挙げるような作品よりは良いと言いたいのではないでしょうか。(A)

  • 当たりさわりのないことを言っている
  • 肉付きが薄く、話を追うだけで終わる
  • 筋が通りすぎて、最後まで見終わった感想が「納得」
  • 作者が後日談やスピンオフ、あるいはコメントで作品解説をしている

また、考えさせてくれる傑作については次のいずれかを想定しているのではないでしょうか。(B)

  • 示唆に富み、自分が今まで考えもしなかった問いを投げかける
  • 構成や演出が巧みで、作者の意図やテーマに考察の余地がある
  • 話の筋が錯綜しており、パズルを解くような遊びがある
  • 他の作品に興味を持たせてくれる、知識欲を刺激する
  • 登場人物や話がほどよく作り込まれながら、人物の感情や話と話のあいだ、続きなどに想像の余地がある

AとBの作品の違いは明白であり、それぞれ異なる性質を持っています。しかし、本当にAの作品はAの作品で、Bの作品はBの作品でしょうか。次の問いを挙げます。

  1. 前評判や第一印象、作家性でAの作品、Bの作品と決めつけて、何も考えないように受け取ったり、あるいは考えようと受け取ったりしていないか?
  2. 最初から何を受け取りたいか決めていなかったか? たとえば疲弊しているから甘いものを食べたいと考えなかったか?
  3. Bの作品にあとから作者の分かりやすい解説がついたらAの作品になるのか? あるいはAの作品にあとから謎をもたらす続編が出たらBの作品になるのか?

他人の感想を読んでこう思ったことはありませんか。「考察で面白くなる作品なのに、あの人はきちんと読めていない」あるいは「一生懸命に語る人もいるが、それほどの作品と思えない」作者や作品が問うから答えるのでなく、考えさせるから考えるのではなく、受け手が考えたり考えなかったりするだけ。だから「考えさせるから傑作」は適当でなく「考えたいと思わせるから傑作」が正しい。しかし、そんな思いは個人の気分や天候、気圧、湿度、温度、時と場合、状況によるわけだから、もはやその場かぎりの感嘆を主張のように言い放っているにすぎない。ですから、「でもそれだけ考えさせてくれるから、傑作」は無意味な感嘆符に等しい。

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 赤地に白字の文章は僕の目を疲れさせる。

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(二)何について、もやもやするのか
そもそも「もやもやする」とは何なのか、先ほど挙げたBをもとに想像を膨らませます。
「話の筋が錯綜しており~」「他の作品に興味を~」はもやもやの対象ではないしょう。わからないならわからないとしか言えないからです。一般的に、前者は「難解」後者は「衒学的」と表現されます。
「登場人物や話が~」もまた違うでしょう。もともとありもしないはずのものを勝手に想像しておいて「もやもやする」とだけ言うのは無理があります。また、「どう考えても悪い未来しか想像できない」「物語の裏のある登場人物の心情を考えると……」のようにもやもやする理由を挙げられるはずです。
「示唆に富み~」は複雑です。みなさんおなじみのトロッコ問題やモンティー・ホール問題を前にして「もやもやする」は穏当です。しかし、モンティー・ホール問題で倫理的に、トロッコ問題で確率に「もやもやする」とは言わないでしょう。もやもやをジャンル分けできる、またはまったく目新しい問題の場合もその問題に対してもやもやしていると自覚できるのであれば、何に悩んでいるのか説明できるはずです。

  • 構成や演出が巧みで、作者の意図に考察の余地がある

タイヤのない車はあっても、構成や演出のない作品はありません。作者の意図も後述する例外を除いて、からだをめぐる血のように流れています。すべて作品内にあるのに、わからない。霧中にうすぼんやりと影が見えるようで、全容が明かされるわけでもないので系統わけもできない。パズルであれば答えがあるが、そもそも作者の意図が――作者が答えをもっているかもわからない。そのわからない気持ちが「もやもやする」ではないかとワタクシは想像するのです。

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 すべての単語にはられた辞書サイトへのリンクが僕を狂わせる。

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(三)なぜ、もやもやするのか
作者の意図がわからないから、もやもやする。前項でそう結論づけました。
しかし特別な状況下で作られたもの(自動生成、速記、寝ぼけて、無意識)など特別な場合を除いて、作者のいる作品には作者の意図があります。ではなぜ、ある作品にだけ「もやもやする」と思うのか。

あまりにも高等なために、愚民では理解できないから?

もしそう思うなら「もやもやする」の表現は不適です。「もやもやする」には少しは考えているような含みがあります。この場合は「高尚」といった形容がぴったりでしょう。
作品に「もやもやする」理由について、ワタクシは次のように考えています。

あまりにも支離滅裂なために、理性が理解を拒むから。

先ほど「そもそも作者の意図が――作者が答えをもっているかもわからない。」と書きました。ここでいう答えとは、作者が投げかけた意図に対応するものです。すべての問いに答えがあるわけではありませんが、明らかにおかしいとわかる答えがあります。例を挙げると「二本足で歩く耳の長い動物はなーんだ? 正解はリンゴでした!」です。これは明らかに知性や理性によっては解決が困難な問題です。しかし、その問いや答えを構成や演出で示したとしたら? 台詞にすれば作者がわかっていないと受け手にわかることでも、とたんにそれを指摘することが難しくなります。もともと他者の意図なんて誰にもわからないからです。「動物の答えがリンゴなんておかしい」と考えても、作者は「そもそも赤い果物はなんだという問いだった」「リンゴではなくウサギを描いていたのだ」と前提を変えることができます。だから受け手は「なんか表現していることと表現したいことが違うような」というずれを漠然と感じながらも、口ごもって「もやもやする」という感想を言うのです。たぶんね。

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 マウスにつままれたサムの旅はもうすぐ終わる。

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(四)感想で「もやもやする」と書かないためにできること

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 見出しだけが己の存在を誇示し、あとがきに続く。

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(五)あとがき
「表現していることと表現したいことが違うような」これがワタクシの考えるもやもやの正体です。
嘘が常になると、いずれ真になります。今は覚えていても、過去にふりかえると嘘を信じてしまいます。だから美しいものを美しいと言うように、汚いものを汚いと言うように、めちゃくちゃなものはめちゃくちゃだと言ったほうがよいのです。たとえそれを指摘することがどんなに困難で、的外れだと恥をかかされることだとしても、自分がそのときその瞬間に思ったことを言う。「もやもやする」と曖昧にぼかさない。そうやって自分が思ったことを信じていかないと、いずれ己の想像を信じられなくなり、他者の感想を聞かずには自分の意見を言えなくなったり、沈黙で己を守るようになったりします。違和感を大事にしてください。そして出来ればネットで公開してほしい。思考は人に見せる過程で洗練されてゆくから。どうしても後で振り返って恥ずかしくなったらローカルにテキストファイルで保存してネットから削除すればいい。いじわるな人が蒸し返すかもしれません。でも、それがなんでしょう。感想はしょせん個人の価値観によるものでしかないのだから、正解なんてありません。
それでも一つだけ正解を教えさせてください。
最初の項で「考えさせられるから傑作」は感嘆符だと言いました。先ほど示した「もやもやする」の正体と合わせると「もやもやする……でもそれだけ考えさせてくれるから傑作」は「表現していることと表現したいことが違うような気がするなあ!!!!」です。心当たりのある方は、もう少し素直になってください。あなたはそうだからそうなんだと言いたいのではなくて、「これは傑作だ」と言いたかったのではありませんか?

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 旅は終わり、布団は僕を暖かくして寝る。

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 人から呼ばれることのない名前はすっかりと薄れてしまう。
 乙中先輩のアドレス帳によると、僕の名前は“キーウィ”だった。
「先輩。ちょっと相談があるんですけど」
 部室棟の脇には大きな木が一本だけ生えて、どっしりと僕らを待ち構えている。根っこは僕たちの椅子になり、葉は僕たちの影になる。飛行機は空に線を書き、木の枝も地面に顔を描く。
「天野の顔? 上手いね」
「ボクを許してくれるでしょう。何も起こらなかったように歓迎してくれるでしょう。こうしてボクは文芸部に丸めこまれるんです」
「文芸部はそこまで小さくないさ」
「この前、斉藤先輩に『カイコガ』の感想を聞いてみたんです」
 斉藤の生首が天野の隣に現れる。
「題名と本文と主題が一致していない。さらに犬の死と友人の指が切断されたことにも関連性はない。そういう実験小説だろうと先輩は言いました。そんな支離滅裂な物語なら、どうしてこんなに泣きたくなるのか尋ねたら」
「あまりにも不合理で、あまりにも優しいから」
 大木のそばにある、部室の窓から斉藤の生首が飛び出ている。
「犬が死ぬことに、人が傷つくことに何の理由も認めないから」
「そっちのほうがいい。純粋にそう思えたんです。だから……丸めこんだり丸めこまれたりするのも、悪くないかもしれないって」
 やわらかな息吹が僕たちをふるいたたせ、受け入れてくれる場所に帰らせる。

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 天野の人差し指と親指はこれからできあがる部誌の厚さを示している。
「三百ページの四ページじゃない。数十ページの四ページなんだ。さらに三百ページの一ページでもない。四ページの一ページなんだ。だから一ページに収まる文章も、三百ページの文章と同じではいけないんだ。わかるか」
「わかるとも」
「それがわかっていて、なぜ一文も書けないんだ」
 厚さを示していたはずの指は、僕の原稿に銃の形を突きつける。
「吉屋にプレッシャーを与えるな、殺すぞ」
 柏木の銃が天野に向けられる。
「私も一緒に殺す」
 斉藤の銃が柏木に向けられる。
「あなたを殺してボクも死にます!」
 阿島の銃が斉藤と彼の頭を指す。
「ひとりで死ぬしかないのかな」
 第二関節で曲がった指は自然に僕と宙の中間を示す。
「書かないからだ。書かないから殺せないんだ」
「だけどだれも殺したくないよ」
「締め切りは明日だ」
 銃は遊ぶように近づいたり遠ざかったりして、機会をうかがっている。
「逃げてみろ。追っ手をよこすからな」
 震えもしない僕の質は血の気も失せたように真っ白な顔をしている。

18

 文体は人なり。
 息は泡となってぶくぶくと水面をおびやかす。両肘が浴槽の壁にぶつかり、踵がぺったりと浴室の壁にはりつき、僕の頭は沈んでゆく。
 僕の文章は彼らに気づかせる……目と頬のすきまにあるうぶ毛がふわふわと踊る……あるいは……生ぬるい温度が思考を促す……だれにも気づかれないかもしれない……僕の言葉は泡になって消える……よけいな声を出してはならない……意識は最後まで僕に問いかけさせる……空気を失ってしまうからだ……しかし声なきものをだれの手がつかむ?
 僕の顔は自ら飛び出し、鯉のようにぱくぱくと口を開ける。

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 僕の原稿は乙中京子を殺す。

20

 今日にかぎって勢揃いしていた部員たちの眼光が僕を一歩だけ退かせた。開かれていた窓からは逞しい腕が伸びていた。さらに僕の足が一歩、二歩と下がると、すべての椅子が後ろに倒れた。床に置かれた攻略本、新書、地図、成人向け雑誌、料理本、絵本の山が崩れ、その上を足音が走ってゆく。
 ドラフトは夏の大会を終えた三年生の希望を完全に打ち砕き、他のものに目を向けることを勧める。
 素振りで鍛えた筋肉は、ひ弱な文芸部員の原稿を取り立てるのに役立つ。
「まったく面白くない話なんだよ」
 部室棟を駆け抜ける大勢の怒声にまぎれて彼の明るい声が響く。「笑いやしないさ。話してみなよ」
 パソコン研究部顧問の野太い声は僕を追いかけていた生徒を減らした。「走るな、走るな、走るなー!」
「本当は二十ページ以上あったんだよ」
「初めてなのにそんなに書いたのか。やるじゃないか」
 渡り廊下は無視されて、上履きは中庭の土で汚れる。
「そうだよ、初めてだったんだよ」
 二階から突如として降ってくるごみが、追っ手の顔面に命中する。
「だったらほら、読ませろよ。その処女作を!」
 教室棟の長い廊下についた足跡が、階段を駆け、廊下を走り、階段を駆け、廊下を走るうちにだんだんと減ってゆく。
「最後の最後だから記念に書いてあげたんだよ」
「最後じゃない。私たち、これからたくさん書く。そのためには、最初の一作が完成しなければならない」
 細かく刻むような揺れが彼らを躊躇させ、僕に少しの余裕をくれた。
「だけど、裏切られた」
 なぞなぞがみなに足踏みさせる。「二本足で歩く耳の長い動物はなーんだ?」
「先輩、いろいろあるかもしれないですけど、読み手には書き手の事情なんてどうでもいいんです。でもそれは」
「冷淡でも何でもないんだ」
 脱ぎ捨てた上履きが元野球部員を倒した。
「好きなものに裏切られた。悲しかった。辛かった。だからこそ、好きだと思う人を裏切りたくなかった」
 硬く出来た非常階段の構造は僕たちを疲弊させた。そうでなくても、階段は四階で終わりだった。
壁は彼らとの対面を促すように僕の背中を支えた。息の大合唱はしばらく続き、ようやく追いついたらしい見知らぬ人々まで階段に押し寄せた。
「完成したらおれに最初に読ませるって約束したじゃないか!」
「そうだね、未完成の作品を読ませてはいけない。だれの手でもそれは許してはいけない。完成というのは、自分の手で送り出して、初めて言うんじゃないかって」
 僕の背にあらゆる声が飛んでくる。「やめろ」「たった一作のために」「命を落とすな!」叫びを叫びが相殺する。
「人の情熱を理解しようとするなよ!」
 キーウィ! 君の飛べない体は僕を勇気づける。楽園は君から飛ぶことを奪い、たおやかな生存を与えた。攻撃されないのなら飛ぶ必要もない。だれも殺さなくて済むならそれでよい。キーウィ! 幸福とはそういうものじゃないんだよ。
 開いた封筒の口から原稿が飛び出す。
 やわらかな息吹が彼らをふるいたたせ、受け入れてくれないかもしれない場所に帰らせる。
 それでも、一枚一枚が懸命に飛んでゆく。
「全部で二十枚あるよ」
 階段を駆け下りる彼らの横を通って、僕の足はまっすぐに部室へと進む。机にはなぜだかちりとりが置いてあり、中には原稿が入っている。一枚、二枚……二十枚の紙束は僕の笑いを誘い、ひっくり返し、本の床へと寝そべらせた。
 脂と汗の染みこんだ、古くさい紙の臭いとともに、窓から差し込む光で照らされた小さいごみたちが教えてくれる。
「キーウィ、物語が人生を豊かにするわけじゃないよ」
 僕は小説を書いた。