情報構造

男性が幼馴染とオンラインサロンを立ちあげて友達が死ぬオンライン小説です。

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 よく考えると無意味な行動だった。私はいつもそうだ。クラスで最後に九九を覚えた人間にできることは限られている。よれよれの長袖の先端の糸くずを捨てて軟禁部屋を出る。
 階段のわきから出るとさっそく南禅朝晴を見つけた。彼はソファに寝転がってテレビを見ていた。からだには毛布のように新聞がかけられており左手にライターがあった。禁煙を始めて九十一回目の三日目。私に気付くと新聞をくしゃくしゃと丸めて床に投げた。
「悪夢の調子はいかが」
「残念ながら人は夢を選べないのだよ。しかも忘れることもある」
「ダブル・ミーニングを言ったら殺すと言っただろう」
 今日のお天気は晴れで降水確率は二十パーセントだった。私はテレビドキュメント部門に出す作品のために撮影および編集にあたった。題材は「身近なメタファー」で私たちは脚本通りに欲しいコメントを生徒たちにインタビューするだけでよかった。教室に残って首からぶら下げたカメラでひたすらに写真を撮っていた南禅朝晴はクラスメイトの椅子を開いていた窓から投げなかった。
「僕の投げなかった椅子によって誰かが頭を打ったかもしれない。あるいは避ける拍子に転んで頭を打ったかもしれない。そしてそのまま死ぬ。この出来事に人間はすばらしい教訓を見つけようとする。人生は何が起きるか分からない! 決してあらがえない宿命がある! 不運をあらかじめ知ることはできない! うんぬんかんぬん。教室から椅子が投げられて誰かの頭に偶然ぶつかったという単純な事実を美化する。レトリックは悪趣味の論理である」
 メタファー嫌いの南禅朝晴は私をソファに座らせるかわりにリビングを出て牛乳とロールパンを持って戻ってきた。コップと皿をテーブルに置くと私を見下ろしたまま腕を組んだ。
「間所が新しい拷問を思いついたそうなのでそろそろ到着する」
「朝から?」
「すべては君が悪いんだぞ。悪夢を見ることなくロールパンの消費量だけあげている人生を悔いろ」
 ロールパンの食べ方がわからないんですと三十代女性は言った。個室でふたりきりにもかかわらず彼女はしきりにきょろきょろと辺りを見渡した。壁一面にある半透明鏡ごしに南禅朝晴と知らぬうちに何度も目があった彼女は「インターネットで」と切り出した。
「よく調べるんです。人と出かけたり外食したりするたびに。マナーとか心得とか。自分でもすこしおかしいのかなって思いますけど。不安なんです。世界で一人だけみなと違うやり方でロールパンを食べていたらって」
「私は牛乳と一緒に食べるよ」
「でも先生の本を読んでがらりと見る世界が変わったんです。つまりロールパンを好きに食べてもかまわないと」
「まあそうですよ」
「お口から食べてもお尻から食べてもかわらないと」
「原則的には」
「先生。あなたがたに教えてもらった人生を有効活用したいんです。どうすればサロンに入会できますか」
 机の上に置いていた書類をめくるふりをして私はいつのまにか露出していた盗聴器をお菓子かごの後ろに隠した。
「みなも以前のアナタと同じような悩みを抱えています。彼らは我々の本を読まなかったためにいつの間にか死んでしまう哀れな存在です。しかしアナタがネットショップのレビュー欄に絶賛のコメントを投稿して読者を増やすことで救われるかもしれません。己の運命を知るものは他者の運命も変えられるからです。うふふ」
 つい笑みがこぼれた。南禅朝晴のあごに小さな綿がついていた。
「悪夢ぐらい想像で描けばいいじゃないか」
「僕は現実にあるものしか描かない」
 ところが南禅朝晴に与えられた課題は「悪夢的なもの」であった。彼はまず図書館で暇を持て余している私を訪ねて「君は睡眠中に夢を見るのか」と尋ねた。
「人並みに見るよ。見ないの?」
「睡眠中には見ない」
 間所は顔を合わせてすぐに「その……卵焼きのパジャマはファッショナブルだ」と言った。私はソファに座ったまま腹を覆っている薄い布地を引っ張って「これは目玉焼き柄だよ」と返した。
「ずいぶん重そうだな。何を持ってきたんだ」
 コップと皿のそばにリュックサックを置いて間所はひとつひとつ道具を机に並べていって「ハンマー」「釘」「ハンカチ」「メガホン」「シンバルを持った猿のおもちゃ」と物の名前を発声した。
「教えてくれてありがとう。でもここでやる気か?」
「検索エンジンで『子猫 おふとん』と『おふとん 子猫』を調べると検索結果が変わるんだ。でもぼくは『子猫 おふとん』と『おふとん 子猫』の語順によって何かを示したかったわけではないし純粋に子猫とおふとんについて知りたかっただけなんだ……ぼくの気持ちとしてはそんなところだ」
「僕が文学的表現を厭う理由をよくぞ体現してくれた。死ね」
 南禅に睨まれた間所は「あやまらないじょ」と小さく言い返してソファに腰を掛けていた私の首の側面を爪でちょんちょんとつついた。促されるままにそのまま横たわると彼は私の脇腹に「シンバルを持った猿のおもちゃ」をそっと置いた。息をするたびに「シンバルを持った猿のおもちゃ」はかすかに震えて自動的に音を鳴らした。
「悪夢を見るために必要なものはドラスティックなイメージと目を閉じる勇気だ。きみにはそのどちらも欠けている」
「眠るのに勇気なんて必要ないね」
「きみの頭は南禅と一緒にいすぎて腐ってしまった」
「腐ったら死ぬよ」
「だから腐ったんだ」
 口をつけて置き去りにしていた紅茶飲料からまぎれもない死の味がした。間所にさしだされたティッシュで舌のぬるぬるをこすりつける。彼は「特急券だけは速さを保証してくれるんだ」とささやいた。
「高速道路は道路を利用したことでお金を徴収しているから高速で移動できなくても返金はされないし新幹線の乗車券だってある場所からある場所に運ぶまでのお金を徴収しているから高速で移動できなくても返金はされないけど特急券だけは早くつくことを保証しているから遅延が二時間を超えると返金してもらえるんだ」
「お金を返してもらっても私たちの修学旅行は返ってこないじゃないか」
「そうだ返ってこない。失われてもいないんだし」
 間所が「ハンマー」で私のおなかのやわらかいところを叩いている。ぼにぼにと弾んでいるものの内蔵には届きそうにない。片手で広げた「ハンカチ」を私の顔にかける。振動ですぐにすべりおちる。「シンバルを持った猿のおもちゃ」はすでに私の側面からおちている。南禅朝晴は床に横になって眉間にしわをよせていた。
「うなされているね」
「うなされているんだ」
「起こしてあげたらどうだい」
「きみこそ起こしてやったらどうなんだ」
「いつも偉そうにしている罰だ」
「いつも偉そうにしなければならない罪なんだ」
 私たちは顔を見合わせた。
 南禅朝晴は「情報構造だ」と言った。髪の毛のついた刃を押し倒した間所の首に突きつけた彼は「終末論だ」と続けた。
「秩序があるゆえに終止符に至ることができない」
「しかしいきなり飛ばして終わってしまったら楽曲として成立しないんだ」
「メタファーはよせ。僕は現実の話をしている」
「きみは正気じゃないんだ」
「そうだ。正気なら今日の次に明日が来る。明日の次には明後日があって明後日のあとには明明後日がある。でも狂っているから明日は来ない。明後日も明明後日も来年も再来年もなくて今日すらない」
 うめき声はやがてあの子の名前を象るようになった。南禅朝晴の苦悶のしわはいよいよ深くなる。額には大粒の汗があって弾けて頬の外まで流れ出でた。間所は私の顔にふたたびハンカチを被せた。今度は床に落ちなかった。あの子の名前でできた悲鳴がずっと聞こえていた。
 女性は勢いよく椅子から転げてしまった。あたりは騒然となりパニックがパニックを呼んだ。壇上から降りた間所が彼女のもとに駆け寄った。「不安になることはないんだ」彼はいつもの低く平坦な声で女の頬を撫でた。
「なぜならきみはファクトを知っているんだ。詳細な未来がわかるからこそ覚悟して生きることができるんだ。それは死なない自殺なんだ。しかも理性のある自殺なんだ。通り魔に殺されることも事故で死ぬことも突然の病で亡くなることもない。きみはその日に死ぬとわかっているから最後にもっていきたいことをもっていけるんだ」
 おそるおそると南禅朝晴に近づいた間所は拾い上げた「シンバルを持った猿のおもちゃ」で彼の鼻と口を覆った。彼はしばらく硬直していたがやがてもがきだした。「フゴッゴホッフゴ」もがけばもがくほど猿は単純な音を奏でた。「ぼくは前々からふしぎに思っていたんだ」「何をだい」間所の野性的な目つきがそのときばかりはとろんと垂れていた。
「一度も見たことのないはずの悪夢をどこかで見た覚えがある。ぼくは現実に硬直してしまい何も考えないようにその予感に従ってきたんだ。でも今にして思えばあれは予知夢だった」
「悪いことを先に知ることができるなら幸いだよ。心の準備ができる」
「知るというよりきっと再構築してしまうんだ。ぼくの舞台はいつも陰気らしいのだけれどきっとそういうことなんだ。かなしいことは転生する。どんなに殺しても殺してもうまれかわる。ぼくのサジェストは汚染されている」
 よごれたハンカチを背中にかくしてあの子は泣いた。「ヘンタイえっちばかばかキング」あの子のひざはきれいでひじも丸くて白かった。「どこから血を流したの?」「ばかのかばやき」私は彼女のつるつるとしたひじをひっぱって木の陰にかくした。公園にやってきた南禅朝晴と間所は私たちがいないことを確認したあとでブランコを三回揺らして帰っていった。「それでどこから血を流したの?」「ばかのやきやき」
 目覚めた南禅朝晴はまず間所の右頬を殴った。次に左頬も殴った。さらに顎に一発をいれた。間所は仰向けに倒れた。笑っていた僕はソファから引きずりおろされて脇腹を踏まれた。滑った彼の足が落ちていた「釘」を踏んだ。こうして全員が床に転がったところで南禅朝晴はおいおいと泣き始めた。
「そんなに痛かったんだね」
「起きたあとはいつも涙が出る!」
「キミと寝たことはなかったから知らんかったな」
 彼はひじとひじで匍匐前進をして机の上にあった「メガホン」をとった。
「婉曲な言い回しはやめろ!」
 南禅朝晴は「ゴミ箱が溶けた!」とわめいて私の胸ぐらを掴んだ。
「待て待て。ゴミ箱が溶けるわけないじゃないか」
「見てみい」南禅は目をしょぼしょぼとさせてアトリエの端っこにあるゴミ箱をずずずずとひきずっていた。くるっと持ち上げて見せつけられた底から彼の顔が見えた。
「なるほど。溶けているね」
「シッカチーフ!」
「はあ」
「君はゴミもろくに捨てられないのか」
「ゴミぐらい自分で捨てろよ」
「何のためにロールパンをやっていると思っているんだ」
「レトリックは嫌いなんでしょ? だったらロールパンを与えるためにロールパンを与えたんだよ」
 泣きべそを服で拭った南禅朝晴は「決裂だ」と吐き捨てた。ソファで膝を抱えた彼はからだを前後に揺らしはじめた。間所は「シンバルを持った猿のおもちゃ」をぎゅっと抱きしめて正座をしていた。シンバルがむなしくチンと鳴った。
「僕はもう何も描かないだろう」
「そんな。何のためにキミはギャラリストの靴を舐めたんだい?」
「舐めたんだ」
「ねつ造するな。とにかく僕はもう悪夢のようなものを描かない。だから君も間所もいらない。今すぐ消滅してくれ」
 間所は「シンバルを持った猿のおもちゃ」を抱きしめながら「それはずるいと思うんだ」とにらみつけた。
「ぼくたちがどれだけの時間を捧げてきみを手伝ったと思うんだ。そんな言葉じゃ帰らないじょ」
「だったら間所。あとで説明するからひとまず視界から消えてくれ」
 南禅朝晴は手で間所を追い払うような仕草をとってちらりと私を見た。
 女従業員は手で小バエを追い払ってから袖を伸ばしてカップを持ち上げた。談話室は彼女の横幅とコーヒーの香りでいっぱいになっていた。
「その本というのが大手のネット書店でも売っているようなまあちょっと表紙がファンシーな感じの小説らしいんですけどショップについているレビューがまたおかしくてノンフィクションだとか預言書だとか書いてあるんです。でもおかしいですよね。預言ならノンフィクションじゃないですよね」
「神の子が書いた日記ならノンフィクションになるぜ」
「確かにそういう感じのこともレビューに書いてありましたね。だけどそれって宗教じゃないですか。たぶん信者にレビューや記事を書くようにお願いしているんでしょうけどそれだって布教でしょ。言いようによっては」
「言いようによっては」
 コーヒーを一気に飲み干すために反った女従業員の動きはあまりにも緩慢だった。しかしコーヒーだけは時の流れに沿うようにしてさらさらと流れて彼女の口に注がれていった。私はふうふうと小さな風を送りながらちびちびと茶を飲んでいた。喉が火傷したように熱くなった。舌は確実に火傷した。
「そういうの信じます? 未来に天変地異が起きて全員死ぬことを?」
「そんなにざっくり言ったらなんでもありえるんじゃない」
「ですよね。結局ああいうのって全部アバウトじゃないですか。何年の何月の何日の何時の何秒にあるかなんて言えないじゃないですか。お告げがアイマイだからって話なんでしょうけどそのアイマイさは致命的ですよね。いつか世界は終わるなんてそんなのだれでも知ってますよ。いつかをいつなのか断定できることが神聖ってもんじゃないんですか。あっし神を信じている人より神を信じてますよきっと」
 南禅朝晴は「情報構造だ」と言った。彼は肩にまで伸びた髪をハサミでじょきじょきと切りながら続けた。「文末にたどりつくまで僕たちは何を言いたいのか知ることができない」髪はぱらぱらとソファと絨毯のあいだに落ちていった。
「文学的なことを言いますな」
「実践的な話だ」
「だって文末というのは人生の終わりの比喩でしょう」
「君は日の名残と聞いて何を思い出すかね」
「人生の終わりの近くだよ」
「終末論はつねに人間の頭のなかにある」
「珍しくもったいぶった言い方をするな」
 私の首の後ろを掠めるように彼の髪の毛が落ちてくる。くすぐったさから身をよじっていると「気持ち悪い」と蹴られた。私はその勢いでごろごろと転がってテーブルの脚にぶつかった。
「夢であの子と会った」
「私もよく彼女の夢を見ているし間所だってさじぇすとが汚されたと言っていたよ」
 切り終えたらしい南禅朝晴はハサミをもったまま頭をぶんぶんと横にふった。髪の吹雪が私の耳たぶに積もった予感がした。
「だったらなぜ気付かない?」
「気付く?」
「夢には順序がないだろう」
 とつぜんにやってきたあの子はテストに書かれた赤いコメントを指さして「ムキィ」と足をばたつかせた。私と南禅朝晴はテレビゲームで遊んでいて間所は揺れるベッドの側面にからだを預けてマンガを読んでいた。
「六個を三人にわけたら何個になるでしょう。正解は三かけ六で十八……は間違いなんだって」
「そりゃそうだ。その計算式だと三人に六個わけるとしたら何個いるでしょうって問題になるだろ」
「ならないもん。途中式から問題を考える問題じゃないんだもん」
「だけどそういう順序があるんだ。番号がふられているわけでもないけど何となくそうだろうと思える暗黙の順序が」
 南禅と間所の言葉にあの子はしょげかえってしまった。ベッドからぽんと立ち上がった彼女はそのまま私の背中にぴったりとはりついた。
「わたしの味方をしてくれる?」
 残機がひとつ減った。空いた片手で彼女の頭をなでる。細くてやわらかな髪が私の手を撫でかえす。
「もちろん。かけ算の順序が強制されても電卓で叩く順番は決まっていないんでね」 
 どうしてだいと私は尋ねた。間所は新しいパンツとタオルとシャツとズボンを抱えて「汚れたから洗うんだ」と足を止めた。
「どうして間所を追い出したんだい」
「嫌疑がある」
「今さら気付いたのか。ゴミ箱にハンカチーフを捨てたのは私じゃないぜ」
「あいつはすべてを知っていたかもしれない」
「何の比喩?」
「僕が冗談を言ったことがあるか?」
 個展で流す音楽として南禅朝晴が選んだCDには二つの問題があった。まずは著作権。もう一つはジャンル。著作権の問題はクリアできなかったしゴスペルを流すことは出資者からも私たちからも受け入れられなかった。彼はたたき割ったCDケースの破片でプラスチックの塔を作って間所の腕に押し込んだ。
「友人のよしみでヒーリング音楽を作ってもらおう」
「ぼくはユウヒの友だちであってきみの友だちじゃないじょ」
「いいから音楽を作るのだ! 早急に」
 間所は卓上にあったノートPCの前であぐらをかいた。背後にぴったりとはりついている南禅朝晴をときどき仰いで操作を続ける。暖房がききすぎている。作曲フリーソフトにはピアノロールが表示されている。適当な場所をクリックすると長方形の音符ができる。右の短辺にカーソルをあてて右にひっぱると音符が右に長くなった。「メタファーだ」南禅がトイレに出ている隙に間所は「ロイヤリティフリー 音楽」と検索した。開いたサイトの規約ページを熟読した彼は視聴するまでもなくBGMをダウンロードした。ダウンロードと検索の履歴を消去することも忘れなかった。
「良い曲ではないか。題名は?」
「クロワッサン行進曲」
 三日月をディジタルカメラで撮ってあの子が言った。「なつやすみの日記をマジメに書くなんてマヌケのやることだもんね」海辺の遊歩道のそのふちの狭いコンクリートに上って彼女は私たちを見下ろしながら歩いた。白いワンピースに黒の海が透けている。サンダルを履いた生足はぼんやりと光って見えた。「写真をはったら先生はよくがんばったとほめてくれるでしょ。わたしがじゅんいをぎゃくてんさせたと気付かずに」
「順位って何が?」
「写真をはったから文字を書くぶぶんがへったのではなく文字を書くぶぶんをへらすために写真をはったということ」
 私はいつも彼女のとなりにいてその前に南禅朝晴が後ろには間所がいた。南禅は後ろ向きで歩いて「ずるいやつ!」と彼女を罵倒した。「それは順位とは言わないんだ」間所もつぶやいた。
「エヘヘ。くやしかったら来年からやってみればよいのだぁ」
「にしたってなぜ月なんだ? 僕たちと遊んでいるところでいいだろ」
「ほんとうにだいじなことはあるだけで十分だからかたちにのこさないの」
「どうして?」
 彼女は後ろに手をまわしてちろっと舌をだした。「単語だよ!」
「かたちになったらカンタンに入れかえられちゃうもん。でも単語をつくる一文字と一文字はならびかえできないのだぁ」
「あの子は死んだ」
 間髪なしに南禅朝晴は言った。靴の裏にガムがへばりついていたという響きで告げた。「知っているよ」私からは彼の足しか見えなかった。「知らなかったのかい?」
「あの子が死んだからすべてが狂いはじめたんだと誰かから聞いた」
 人はすぐに形に残して整理をはじめてしまう。
 たとえばあの子が死んだから狂ったのだとか狂ったからあの子が死んだのだとか何で息継ぎもなしに話を進めるんだろう。読点を捨てて事実だけを並べればいい。天気は晴れだ。山がある。川が流れている。学校がある。電波時計の秒針がなめらかに動く。パセリが苦い。ハンカチを落とした。匙が投げられた。賽が投げられた。椅子が投げられた。あの子は死んだ。私たちは狂った。それのどれもがいつ起きたって結構じゃないか。パセリが苦いというだけで私たちが狂ったなんて妄言は責任のなすりつけにすぎない。 
 メタファーはつねにありもしない因果関係をうみだす。文学はA=BとC=Dを書きA=Eを描く。ダブル・ミーニングは事実を曖昧にする。一方で私たちの日常は屈折しすぎていた。何がいつ起きてもおかしくなかったし事実すべてのことが起こった。情報構造によって並べられた現実。しかしながら思う。今という日に思ったわけでもなく過去に思ったことでもなく思う。純粋な事実はどのような順序でも成り立つのではないか。たとえば次のように。
 教室に入ると南禅朝晴と間所が言い争っていた。それも単なるじゃれあいとは思えぬ激しさだった。間所は口だけ動かすだけでぷらんと腕を垂らしていた。その手首からは血が滴っていた。私を見つけた南禅が叫んだ。「手首を釘で刺したんだ」私は急いで床を見て釘を探そうとした。「それはどうでもいい話なんだ」間所は教室の最後列にある自席の椅子を引っ張り出した。「南禅は宿命を信じる?」彼の手からは依然と血が流れ続けていた。
「曲がり角を左に曲がり続けた男の話をするんだ。彼はある日なんとなく曲がり角を左に曲がり続けたんだ。すると付けていたイヤホーンからこんなニュースが飛び込んできた。『複数人を切りつけた男が××方向に逃走中』左に左に左に曲がるとちょうど鉢合わせするとわかった男はそれでも左に曲がり続けて通り魔に殺されてしまったんだ。解決策はなかった。これは『曲がり角を左に曲がり続けた男の話』をしたために生まれた悲劇なんだ」
「意味のわからない話をするなよ!」
 間所は椅子を持ち上げて南禅に振りかぶろうとした。彼はそれを受け止めたが後退した。どんどんと窓のほうに近づいてゆく……。
「釘でなくてもよかった。ハサミでも包丁でもかまわなかった。ぼくは行き先にたどりつけさえすればその過程なんてどうでもいいと思っていたんだ。ユウヒにはそう言わなかったけど。それも宿命のためには必要なことだったんだ」
 間所から椅子を取り上げた南禅朝晴は勢いあまって開いていた窓から椅子を投げた。武器を取りあげられた間所は何も言わずに出血する腕を押さえた。あまりにも軽い音。あまりにも軽い音。あまりにも軽い音がした。外から悲鳴が上がった。南禅と複数人のクラスメイトが窓から乗り出して下を覗きこんだ。私は欠伸をしていた。南禅朝晴はそんな私を押しやって廊下を走っていった。ある予感に身震いをしながらほかの生徒でいっぱいになったグラウンド側の窓に近づいた。背伸びをして見下ろした先。血だまりのなかに南禅夕陽がいることを知った。
 人間の脳はよくできている。ノートの端に書いたパラパラマンガのページを切り取って並び替えてみるといい。稚拙な棒人形の冒険はじつに奇天烈な動きになる。本を正せば一枚絵の連なりにすぎないのにわれわれは正当な続きを知っている。だからどんなに並びかえても正しい順序を考えてしまう。旧いものを前に。新しいものを後に。
 多くの人間は「今」が「過去」から作り出されることを前提に話を進める。一方ですでに「未来」が定まっていることを信じない。予感のために動くことを以前の経験によるものだとして解決する。これらは不幸のもとだ。彼らは自分が死ぬことを知らないままいつの間にか死ぬのである。
 おそらく南禅朝晴は夢によって次のことに気付いたのだろう。夢は無秩序であること。文法にとらわれないこと。古い情報から新しい情報に向かう情報構造が失われること。
 彼がそこで何を見たのか私には知ることができない。しかし南禅朝晴は私の心を知ることができる。なぜなら彼はメタファーでもなく神の子でありレトリックでもなく真実を知っていて今までの私たちおよび今後の我々の宿命を読み終えているからである。だからこの文章を読んでいるあなたは幸いである。あなたはいきなり死にやしない。死に方はもう決まっているが生き方はまだ決まっていない。事実と事実に因果関係はないからである。おそろしい災厄を前にしてそのことを知るあなただけが生きることができる。他の救いはすべてまやかしである。詳しい情報を知りたい者は巻末の南禅朝晴ブログのアドレスにアクセスしオンラインサロンの入会手続きを取りなさい。あなたの生は完全につめたい秩序から取り払われ美しく転回するだろう。
 最後に。はかなく散ってしまった南禅夕陽の終わりを哀れむ人もいるだろう。ここで私はキミたちに奇跡を見せようと思う。
 南禅朝晴が私と間所のために用意した三連のプリンカップを南禅夕陽は朝のうちにすべて平らげていた。兄は妹を正座させて「何か言うことは?」と詰問した。夕陽は「言うことねぇ」と舌を出して「甘くてとろっとしていてカラメルがちょっと苦くてすっごくおいしかったよ」と笑った。