ひよこさらさら

読書によって情が深くなった男子中学生が小説を書かないオンライン小説です。

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 人はなぜだか美しいものを愛する。あるいは愛しているものを美しいと評する。純文学先生によれば美は真理や善に通じるらしく彼に寵愛されているヒィッキーによれば美しいものはあまりにも希少ですぐに消えてしまうものなので表現によって留めてやらなければならないらしく彼らにあきれている僕の親友からすればあらゆる哲学者たちが存在の甘い誘惑に負けて美について語りすぎたために哲学を引用して少しでも賢くみせようとする作家の本が美を賞賛し必読の古典を読んで賢くなろうとする大学生や主婦が歴史の深さに圧倒されて感銘し文字を読める人間を聡いと考える人たちが彼らにそこまで褒められるのあれば美はすばらしいものだと結論づけ広告会社は化粧品を売るためにコマーシャルを打ち続けるので作家志望の人間は美しいものを書きたいと抜かすらしい。美容体重に支配された思考停止のオカマどもと彼は揶揄する。「美しいものは確かに美しいかもしらんが、美しいものを愛する心は美しくねえ」
 階段を下りる一年生の足をひっかけて上がる悲鳴を聴きながら二段飛ばしで進む。
「そういや、あのゲーム買った?」
「どのゲームよ」
「新作よ」
「この世は一ヶ月に一作しか出ない世界じゃねえんだぜ。買えんよ」
「ゲームのやりすぎで殺されたか?」
「だってえピンチだし、今月もう五万使ったし」
「あと三万あるじゃん」
「貯金してノートパソコン買うモン」
「おされなカッフェでエロ動画ビュッフェですか」
「違えよ。打倒純文学先生よ」
 部室の前で僕たちは立ち止まった。
「あいつの無防備な頭をノートパソコンの重量でドーンよ」
「大人しく執筆しとけ」
「だって何も思いつかねえんだモン」
 引き戸を開けた音で部室にいた全員がこちらを見た。あいかわらずの少ない部員に広い教室にぽつんと置かれた長机と椅子にヒィッキーの隣に座る純文学先生にエモ男のこれみよがしの翻訳小説タワーに鍋底ちゃんの汗でよれよれになった原稿用紙にため息がこぼれる。
「今日もシケてますなあ。もっと文学バトルしようぜ」
「そうそう。ペンとペンでペンタスロンよ」
 純文学先生とヒィッキーは二人でこそこそと話をしはじめエモ男はぱらぱらと翻訳小説をめくりだし鍋底ちゃんだけがにこにことして小さく手を振った。僕たちは顔を見合わせるまでもなく鍋底ちゃんを挟む形で座る。彼のそばには黒ずんで角を失った消しゴムと折れた芯があり鉛筆けずりからこぼれていた木くずが冷房の柔な風でかつおぶしのように踊っている。
「おやおやおや、だいぶ筆が進んでますなあ。えらいえらい」
「よしよし」
「ふたりは純ちゃん先生の喜びそうなネタ、みつけたかい?」
「よしよし」
「よしよし」
「困ったねえ、でも素直に書けば大丈夫だよ。先生はふたりが真剣に書けばなんでも嬉しいと思うからさ。きっとだよ」
「それは聞き捨てならねえな、鍋底ちゃん。前回、純文学先生が俺たちになんて言ったか思い出してみろよ」
「いや、鍋底ちゃんの口から聞きたくないから僕が答えよう。あいつはこう言ったんだ。『君たちの物語にはテーマがない』いま思い返しても本当にありがたいお言葉だこと」
「人間性を否定されている気分よ」
「そっか、かなしかったねえ。ぼくも似たようなことを言われたよ。『これは小説というより漫画だ』って」
「なんだって。そりゃ知らなかった。早く言ってくれれば給食に漂白剤を混ぜてやったのに……」
「今からでも遅くないだろ」
「もう十四歳になっちゃったモン」
「違えよ、文章で殺すんよ」
「ああ、そうだった。そういうわけで鍋底ちゃん、俺たちは純文学先生を文学で羽交い締めにして焼死させて凍死させて他ありとあらゆる死に方をさせるためにいつも通りの話を書いちゃだめなわけよ。そこで重要になるのが、インストラクション……」
「インプットよ、インプット」
「そうそう。一日に受けたすべての刺激を吸収するべく目を見張って集中力を高めて機敏になって疲れて授業全部寝ちゃったよ」
「一時間目が体育のせいで」
「がんばったんだねえ。がんばるのはいいことだけれど、リラックスするとアイディアがうまれやすいと聞いたこともあるし、あまり張り詰めないようにね」
「言われんでもわかっとるわいおばあ、鍋底ちゃん」
「しかしそれにしたって鍋底ちゃんの作品を漫画っぽいとはなあ。純文学先生を殺す」
「殺す」
「まず台詞が多いと言われたなあ。地の文をもっと増やせって」
「文学かぶれの孤独な人間は知らんのですよ。会話に没頭したとき相手の表情や仕草を分析し周囲の状況に気を配るなんてことはまずなくて五足す十一の解を筆算なしに十六と導き出すように無意識に処理されて応酬のスピードが上がってゆくということに」
「だいたい会話が続いたからって地の文を挟むのは素人から言わせれば素人きわまりない」
「そうそう。地の文も軽すぎるんだって。もっと描写を増やして読み応えのあるものにしたほうがいいらしいんだよ」
「そんな戯れ言は聞くな! 鍋底ちゃんは今のままで十分にいいじゃん。たとえ純文学先生が体験してもないヒィッキーの書いたいじめの話をリアリティがあるとか等身大のテーマだとか言って褒めていてもエモ男の書く受け売りと引用でその物語に何の必要もない比喩を重ねた見かけ倒しの文体を格調高いとか言って元ネタが分かるものだけが見つめあって微笑するキモいオタクのキモい優越感ゲームが始まったとしても俺たちは鍋底ちゃんの作品の方が断然好きだよ!」
「好きだよ!」
「ぼくも二人の作品が好きだよ」
「そういう問題じゃない! 嬉しい!」
「評価した人間に評価されることは最上の喜びだと認めようだがしかし俺たちは純文学先生を倒さねばならんのよ」
「僕らがハゲに魂を売る分、鍋底ちゃんだけはいつもの鍋底ちゃんでいてほしい」
 鍋底ちゃんとの話に熱中しているふりをしつつ手を止めさせてこっそりと読んだ書きかけの原稿には小学生のとき絡んできた中学生たちの頭をバットで殴り倒して笑っていた無邪気さに満ちており強い人間には何一つ強い言葉が必要ないと気付きながらそれでも言った。
 
 昼休みに山崎を廊下に連れ出した僕たちはぶらぶらと歩きながら彼の脇腹や腕をつねりながら足を踏んづけながら後ろから首を絞めながら中庭の見える渡り廊下に到着した。
「山崎、知ってるかよ。去年、俺たちが中学一年生だったころ、二階の廊下から落ちた生徒がいて救急車に運ばれたんだ。やつは事故で落ちたといっていたが目撃者はいなかった。どうしてだれもいないのにそいつは身を乗り出して落下したんだろうな。物語なら伏線や布石があって怪しい登場人物がいて心情があってミステリーがあるかもしれないがしかし事故は現実に前触れもなく起きるんだぜ」
「待てよ、ハインリッヒちゃんの法則があるだろ」
「あったあった。山崎、知ってるか。落下事故の背景には二十九のおまえの失敗と三百のおまえの異常があるんだぜ」
「日頃の行いが悪いってこと」
「しかしここで一発逆転の大チャンス。山崎から金をむしり取るゲームに参加することで先着一名につき落下しない権利をプレゼント」
「参加するっきゃないよなあ、山崎?」
「ルールは簡単。文学っぽいフレーズを言って審査員を満足させたら一万円、退屈させたら二万円を支払え」
 山崎が俯いたのでむだに長い前髪を引っ張って顔を上げさせると彼は僕たちを睨みつけていたので二人の手で片方ずつ頬をビンタして鼻頭に向かって殴って倒れそうになったやつの腕を引っ張ってさらに何度も叩いて言った。
「山崎、犬と交尾したいのか?」
「なんかシラけたわ、死ね」
 うずくまる山崎の頭を踏んづけて蹴って僕たちは教室に戻る途中で女子に話しかけられたので彼女たちが去ったあとも肘でお互いにつつきあって少し軽くなった足取りでついでにトイレに寄ろうと廊下を進む。
「恋愛小説ってどうよ。ほら、純文ってよくセックスするじゃん。主人公をむちゃくちゃモテ男にして女をハメまくったらセックスポイントが貯まって名作になるかも?」
「おまえなあ、純文学先生が共感できると思うか」
「思わん」
「たとえ愛の真実に辿りついたとしても、愛を知らない人間にその物語は読めん」
「でもさっきの子には運命を感じたんだよな。インスピレーションがむだに沸くというか」
「体位とか?」
「わき毛の濃さとか」
「ニッチ産業がおまえを待ってるぞ」
「早く大人になりたい」
 おしっこを済ませて再び教室に戻ろうとしたところでエモ男とすれ違った。二人で挟むようにしてわざとぶつかってよろけた彼を見送ることなく揃わない口笛を吹く。
「あのなりであんな文章を書いていると思うと笑えるよな」
「著者近影で顔を出しちゃダメなやつね」
「でも顔出さないともらえない賞があるらしいぜ」
「マジかよ。そういう路線で売らないと売れないんだなあ文学」
「もうなくなっちゃえよ文学」
 ようやく戻った教室ではすでに山崎が着席していたのでそばを通るときに二人でバンバンと頭を叩いてそのままやつの後ろに座った僕は体をねじって親友のやわらかな筆箱をペンごと叩き潰した。
「昔のやつはいいよな。戦争とか家族とかいろいろな題材があったわけじゃん。今はどいつもこいつも個人主義。みんなに響く話ってのはもうねえよな」
「それ海外の作家にも思うわ」
「宗教と人種差別と戦争で何万年書くつもりなんだろうな」
 チャイムが鳴ってすぐに純文学先生がやってきて僕は号令をかけて着席させ授業が始まり後ろをちらりと見やれば親友はすでに頬杖をついて目を閉じていて前を見れば山崎の丸い背がありこうやってただ授業を受けて人並みに女子の存在にうきうきして人並みに親友とはしゃいで人並みに母子家庭で生活保護をもらっている知恵遅れのバカをいじめて人並みに愛し愛され生きてゆく自分を客観視すると己の心情を書き連ねたところで何の物語にもならないだろうと筆箱に入れていた画鋲ケースからからころとこぼした画鋲を山崎の背中に刺して抜いてついた血を消しゴムに埋めた。

 ガイジ教室の生徒に首輪をつけて遊んでいたヨッシーたちと別れたあとで僕たちは階段を駆け下りる一年生の足を引っかけて悲鳴のなかで語る。
「いやでも勃起は必要だと思うんだよな。勃起のないリアルなんてフィクションだモン」
「やっぱりリアリティを突き詰める路線がいいんかね」
「純文学先生のように枯れ果てた絞りかすにファンタジーなんて分からん」
「あっちの方も枯れてるかもじゃん」
「根腐れってやつね」
 部室に入るとヒィッキーしかいないので僕たちは彼を挟むように席に座って持ち込んでいる偉そうなノートパソコンの側面をちょいちょいとつついてイヤな顔をされた。
「ねえねえ、ヒィッキー。どうやったら情感あふれる素敵な文章を書けるんだい?」
「バカにしてんの」
「おいおい被害妄想はやめてくれよ。殺すぞ」
「殺せば」
「おまえの家、駅から徒歩五分の賃貸だよな。ゴミ捨て場が散乱している」
「深夜に火つけて近隣住民ごと皆殺しにしてやるよ」
「冗談でしょ」
「当たり前だろ」
 ヒィッキーが息を荒らげていたので親切で二人で背中をなんども叩いてやって彼はむせ返り暴れ僕たちの手を引き剥がした。
「その質問は江茂田くんにすればいいでしょ」
「あいつが書いているのはガイドなんだよな。読んで気に入った文章を検索欄に入れればすばらしい原作に出会える」
「ヒィッキーはさあ、なんだかんだ個性的な文体じゃん? めっちゃ読点多くて読みづらいやつ」
「やっぱバカにしてるし」
「バカにしてねえよ、好きじゃねえけど」
「君たちの場合は文章より題材を気にした方が良いでしょ」
「その題材で悩んでるから気分転換で聞いたんだっつうの。ヒィッキーには人の心がないのかよ」
「空洞に人は好きなだけ自分を投影できるからな。純文学先生はこいつの空虚さに惹かれているのかもしれん」
「何様なの」
「じゃ何よ、題材ってどう探すのよ」
「生きれば」
「は、なんか哲学言い出しちゃったよ」
「いやそういう話ではなくて。生きていたら何かしら言いたいことの一つや二つあるでしょ。問題提起したいことが。君たちさ、締め切りに合わせてとりあえず書いてなんとなく提出してるでしょ。もっと日頃から思っていることを書きなよ。おしゃべりで空費しないで」
「問題があったら口で言えばいいだろ。なんでわざわざ小説にするんだ。非効率的青少年かチミは」
「あ、思いついた。問題提起、ヒィッキーと純文学先生のボーイズラブでも書こうかな」
「はあ?」
「知らねえ? ホモ小説だよ。小説の指導を深まる禁断の愛みたいなよ。そういうのテーマにするの流行ってんだろ」
「やめてよ」
「ふうん、面白そうじゃん。何を提起すんの」
「うんこの穴にちんぽこを入れるのは汚い」
「めっちゃ衛生的な思想じゃん。ヒィッキーも啓蒙されとけよ」
「僕はそんなことしない。してないから」

 連絡網で回ってきたレイプ画像を見て二人でがっかりしていたところで先日話しかけてきた女子の横顔を捉えて急いで教室を抜けて追いかけて爽やかにぜいぜいと息を吐きながら朝の挨拶をすると彼女はこの世の奇跡みたいに笑った。
「今ね、僕たち文学やってるのよ」
「啜る音の美しいやつね」
「へえ意外かも。私、去年の文化祭で部誌をもらって少し読んだよ」
「どうだった?」
「なんか字間が広くて読みづらかったから最後まで読めなかった」
「あるよねそういうのあるある俺もぶっちゃけ製本されてから読んでないモン」
「二人はいつもどういうジャンルを書いているの?」
「ジャンルっつーかな。俺は成長しない物語をやりたいのね」
「ふうん?」
「エンタメってだいたい成長を描くじゃん。成長や克服を善と考える人間が多数派だからハッピーの形として成長や克服で善で大円満みたいな。思考停止じゃね? といってもダメなのに善みたいなのも単にひっくり返しただけでツマンネつーかダメでも善だから善いみたいなクソトートロジーで話をまとめられて作者バカかって思うわけね。わかる?」
「わかんないけど」
「ダメで善でないけど善いみたいな肯定がさ、ダメな行為によるマイナスを抜きにしてもプラスがない道理にかなわん状況の肯定というかさ、そういう、成長のなさを描くのが俺の目標なわけね。もっとも顧問によればそれはテーマがないらしいんだけどよ」
「は、はあ」
「僕はあれよ。ひよこ」
「ひよこ?」
「ひよこを完全にすりつぶした時に何が失われるかっていう思考実験が世にはあるわけね。ひよこの液体は確かに物質でみれば元のひよこと変わんないのにひよこはもうぴよぴよできないわけ。わかる?」
「それは、まあ、わかる気がするけど」
「で、失われたものの回答はあるにはあるんだけど僕はそれよりも液体の質感を表現したいんよ」
「し、質感?」
「ひよこを完全にすりつぶしたらさらさらなひよこの液体ができる。そういう、ちょっと事実に指をつっこんで確かめたみたいな真摯さを表現することが僕の意気込みなわけね。もっとも顧問によればそれはテーマがないらしいんだが」
「よくわからないけど、きっとふたりとも日頃からよく考えているんだね」
「そりゃもちろん。小説を読むことで想像力が鍛えられて繊細になり共感力が養われ思いやり深くなるからよ」
 朝のホームルームの予鈴が鳴ったので彼女に手を振って急いで教室に駆けこんで山崎の首をめがけて拳を入れて席についた。

 傘立てに手をつかせて山崎の尻を傘で殴っていたところでとぼとぼと親友が外からやってきたので山崎をとっとと帰してやって二人で傘立てに座った。僕たちは足をぶらつかせ水面にあそばせて飛沫をあげているみたいに揺蕩っていたが彼から切り出した。
「告白、したんだけどよ」
「おうよ」
「『私も吉川くんのこと、最初から気になってたよ』って言われた」
「なんで好きな子に僕のこと告白してんの?」
「ちげえーよ。常識的に考えろ」
「彼女は僕のことが好きだったけどおまえと間違えたってわけね」
「あの子は、俺が好きで、でもお前と間違えたの!」
「そんなのわかんないじゃん。どっちも似たような出会いをして似たような会話をしたんだしよ」
「思い出して、みろ。最近、二人でいて学校のやつに名前を呼ばれた記憶があるか?」
 吉本はやたらと神妙な顔をしてぴょんと傘立てから跳んだと思うとくるりとこちらを向いて大きく咳払いをした。
「明日、休むわ」
「そんなにショックだったん? 鍋底ちゃん呼んでタコパする?」
「そして明後日、原稿を持ってくる」
 これはアイデンティティを掛けた闘いなのだと僕は分身ネタや二重人格モノのあるある展開に乗ったふりをしてやってもよかったのだが親友に同情は無用だと考えてがんばれよとただ一言だけ告げて一人で帰った。
 
 いつもはあんなに騒がしいのに後ろを何度も振り返っても吉本はそこにいなかった。何か物足りないような感覚は昼まで続きとりあえず山崎を殴ろうと思って非常階段までに連れ出したらやつは終始こちらを睨みつけていて踊り場にまで出たところで僕を突き落とそうとまでしたが避けて転ばせて首根っこを掴んで引きずって階段のだんだんにがたがたと全身を打撲させてやった。
「おまえな、一人ならやっつけられると思ったのかよ。一人じゃなにもできないやつだって? あのなよくゆっくりしっかりたんねんに考えろ。おまえは僕に勝てない。一生勝てない。寝込みを襲っても勝てないしなんなら入院したベッドで点滴を打って意識不明な状態を狙っても勝てない。理性があればそれぐらい分かるだろ。おまえは野生か。しかし野犬と違っておまえに噛まれたっておれは怖くない。いつでもおまえを殺せるからだ。だからな、わんわん、かわいいかわいい」
 正座させた膝を踏みつけながら頭をグーで撫でているとぽろぽろと落ちてきた涙が上履きにまでこぼれて染みになったが僕はもう少しで何かが思いつきそうだということで上機嫌になっており見える空がやたらと青く見え中庭あたりで騒いでいるのであろう女の声に癒やされ受けた風の気持ちよさに絆され世界のすべてを許し承認しようという気にもなったがそこに親友がいないのでやっぱり山崎をボコボコに殴った。

 階段を上って一年生を転ばせて部室に入るとエモ男しかいないので帰ろうと思ったがやつがこちらをじっと見つめているのでしぶしぶと彼の隣に座った。
「ねえねえ、エモ男。おまえの文章はひどく読みやすいね」
「それは褒めてるのかい」
「書く側としてはそれで良いと思うんだが、この世には読みやすい文章読まれやすい問題があるんよ」
「聞いたことないね」
「そのまんまの意味よ。人は読みやすい文章を優先して読む。だから読みやすい文章ばかりが読まれる。たくさん読まれるのだから読みやすければ読みやすいほど素晴らしいと考えだす。その読みやすい文章を書く人間もまた読みやすい文章の愛読者であるので薦める文章もまた読みやすい文章である。読みやすい文章のファンは読みやすい文章を読み続けることになりそうして彼らの糧は読みやすい文章のみとなり人類の思考は読みやすい文章に支配される」
「よくわかんないけどさ。あんた、今まで本人の前であんな陰口たたいてよく話しかけられるね」
 エモ男は立ち上がりしかし席を移動するわけでもなくただこちらを見下ろしていた。
「それとも二人や三人で話しているときはたのしくて周囲が見えてないのかい。仲が良いのは本当に羨ましいね」
「最後のは嫌味じゃなくて本心だろ? 相手を物理的に見下ろせば心理的に上位に立てると考えているなら足が疲れるだけだからやめようぜ。僕も首が痛いしよ」
 彼の手は一瞬だけ椅子に触れたが弾けたように離れひらひらと宙をさまよった。
「言いたいことは分かるけどよ、すべてはおまえの小説みたいに説明的でないんだぜ。『僕はエモ男たちに聞こえると分かりながら話した』なんて書かない。なぜ書かないかといえばそんなことはいちいち考えないからだ。どうして考えないかといえば当然のことだからだ。おまえはよ、結局そういう単純な文脈理解が弱いんよ。だから文章と文章のつなぎがわかりやすくてパロディやオマージュを無理矢理ねじこんだ風に見えるしおまえのそれなりに真っ当な意見が唐突で感情的で部活の仲間なんだからそこはなあなあにしろよなあと呆れたくなるものになるわけ。軽度のガイジだろ。怒ってもいいが怒るな。僕はおまえの小説を認める気になったんだぜ。よい試みだ。ようやくわかってきた。現在進行形でわかってきている。僕は、帰る」
 呆然とするエモ男の肩を押して椅子に座らせて部室を出た足で向かった図書室で借りた本を押し入れるためにロッカーにすべての教科書とノートを置き去りにして急いで家に帰り勉強机に図書を広げ目次に指をあて自分の知りたい情報が載っているページだけに目を通して僕は罫線のないノートにボールペンの横書きで貧困に苦しみ虐待を受けて地域住民から差別を受け学校ではいじめられて知的障害者と同性愛関係になり強姦事件の被害者となり発達障害と精神病で生きづらさを感じ自殺未遂を繰りかえし引きこもりがちになって進学も就職もできず死んだようにかろうじて生きていた男が震災を通して家族との絆を取り戻し社会復帰を果たすという愛と勇気と希望と倫理と努力を祝福しだれと比べても劣っているような人間を決してバカにしたり差別したり陰で嘲笑したり心のなかで決して本人にはいえないようなあだ名で呼んだりしてはいけないし見下すことなく無条件で保護し犠牲を払って対等に援助しなければならないという啓蒙を登場人物の台詞や地の文に盛り込みながら純文学先生あなたは物語の力を過信しすぎている僕はたとえこの物語にすべての人間が涙を流し感動しリアリティがあると推し時代性が反映されていると言いこの書き手にしか書けないものだと賞賛したとしてもまったく信じないしそうだとは思わない他人の詩さえあればいくらでも物語を紡げるように情報さえあればすべてのものを再現なく表現できるがそうだと知っている僕は絶対にそれを美しいとは認めないのだと書かなかった。
 
 何事もなく帰ってきた吉本と一緒に山崎の足裏に画鋲を刺して笑って一年生をドミノ倒しにし走って逃げこんだ部室でうとうととしているヒィッキーや純文学先生の講釈に頷いているエモ男に挨拶したのち紐で綴じた原稿用紙をにまにまと見つめている鍋底ちゃんを挟むように僕たちは腰を下ろした。
「完成したのか、えらいえらい」
「よしよし」
「二人は純文学先生好みの作品ができた?」
「よしよし」
「よしよし」
 鍋底ちゃんの頭をじょりじょり撫でまわしながら僕たちは鞄からクリップでとめただけのまっさらな原稿を机にほいと投げた。
「一日中エロ動画でマスかいてたわ」
「書くだけがかくじゃないんでね」
「そっか。でもまだ締め切りまで時間があるし、ちょっとずつ書けば完成するよ。純ちゃん先生もなんだかんだきちんと完結さえすれば何でも喜んでくれるよ」
「それは聞き捨てならねえな、鍋底ちゃん。命乞いされるならともかく殺される前に悦ぶなんて倒錯的な反応はいらんよ」
「殺せるの?」
 いたずらっぽく小首を傾げる鍋底ちゃんの両隣で僕たちは顔を見合わせるまでもなくクリップをそれぞれヒィッキーとエモ男の額に投げつけ響く二人の怒声を遮るように机の上に立って原稿ですらない原稿を頭上に広げてばらまいた。
 ひらひらと白紙の原稿が落ちるなかでいつの間にかこちらを見上げていたらしい純文学先生と目があったので僕たちは声を合わせるまでもなく同時に言った。
「純文学先生、絶対に殺す!」
 すりつぶされたひよこから失われたのは生命でも構造でも未来でも過去でもなく物語であるということを一行たりともほのめかさずに純文学先生あなたには美なんて一生わからないと書かなかったのに書いた。