等身大きゅうり

男子中学生が高い理想に首を痛めながら夢オチするオンライン小説です。

等身大きゅうり

道理

 男女の理想の身長差は十五センチと聞くけれど、きっとそれは十五センチ差委員会の罠である。自然なことでないから彼らはわざわざ喧伝したのである。本当のことは風に頼らなくても目に見える……想いさえあれば、あとは段差が勝手に二人の間を埋めてくれる。時刻表どおりに電車がやってくるように。次の駅から次の次の駅にたどり着くように。駅から降りたところで、学校に向かって歩く同じ制服を着た生徒の群れから、ぽつんと取り残されているあいつを見つけるように。
 過ぎ去った人の波を目で追いながら、小皆沙月はつぶやいた。
「プラットフォームで待ち合わせしようよ。ベンチか売店の近くで」
「電車を待つところで人を待ったら不自然だろうが。自然に逆らうとおへそを取られるぞ」
「雷が落ちるほどショッキングなことかな」
 とぼとぼと歩く沙月の歩幅はせかせかとしているおれの歩幅とほとんど変わらない。ほら見ろ、誰もそう願ったわけでもないのに運命は二人を同じものにしてくれる。わざわざ秘密のブーツに手を出す必要もないんだ。でも、秘密のブーツが明日も明後日も秘密でいられることもまた、うらやましい気もする。
 好きな人がいるとうらやましいことが多くなる。高校の制服を着た男女とすれちがう。彼らは夏の暑さに負けず、しっかりと手をつないで「今日も遅刻だねん」「そして今日も早退しよう」「今日も相愛だねん」と楽しそうに話している。少しだけ首を後ろに向けてじりじりとあつあつカップルを見ていたところで「こうくん」と呼びかけられた。
「ああいうの、青春みたいでいいね」
 何もないところで転びそうになりながら、体勢を立て直して沙月を見上げる。初めて会った時よりさらに大人びた表情は、以前にも増しておれの背を縮ませる。
 それは今から手を繋いでよいということか? それとも青春したい相手が他にいるのか?
 また高校生の男女とすれちがう。相手の背を激しく叩いて笑いを表現している女子生徒と、目を細めて彼女を見守る男子生徒の横顔が視界に入って消える。
 人生はかくも奇跡で満ち溢れているから「身長二メートルぐらい欲しい」と突然叫びだしたくもなる。

「高井くん」
 そんな呼び方じゃ遊んでやらんといじわるを言ったあの日のおれに感謝。
「幸吉くん?」
 お姉さんキャラかよバカと小突いたあの日のおれに複雑な感傷。
「こうくん……こうくんってば」
 机についていた頬杖を崩して肘ごと頭を滑らせる。もしおれが首の取れやすい生き物だったら、そのままごろっと頭を落っことしていたかもしれない。痛くもないのに「いてて」と言いながら顔を上げると、そこには沙月が――いなかった。
「幸吉ってば騙されて起きて滑ってやんの。プププ」
 二角アキラはけたけたと笑いながら真正面に座るおれの上靴を踏んづけた。
「まだ食ってもねーのに寝んなよ幸吉」
 どこからともなくバターパンの匂いがする。あちらこちらから食器の動く、スープが落ちて跳ねる、牛乳がストローの中を通ってゆく音が聞こえる。見ると班員はすでに給食を食べ始めていて、おれとにやにやとこちらを見ているアキラだけが取り残されている。
 視線に促される形で牛乳を飲んでみると、アキラも給食を食べ始める。「ところでよ、幸吉」口の中を空にしてからやつは言い出した。「愛しの彼女にはどこまで挿入したの?」むせた。
「ほがっ、高井って彼女いたの? よこしまな関係じゃなきゃ許さねえ」
「うるせえ黙ってろ田中……そもそも彼女じゃないし」
 隣で「めそめそ」と声に出す田中を無視して涙を拭う。アキラは上機嫌そうに首を横に振って、机の下でおれの足を踏んだり踏まなかったりする。
「遠距離恋愛なんだよな」
「むちゃくちゃ近距離じゃい。今日も一緒に登校したし」
「ほががっ、高井! 俺たち男子ーズは【女子に関しては女体しか評価しない】と誓ったろ。それをおま、アンチ純愛同盟の絆はどうした!」
「知らん黙ってろ田中……アキラ、おまえはいったい何を勘違いしてるんだ?」
 アキラは指をぴんと伸ばした手をおれの頭の高さぐらいまで動かす。「おめえの位置がここなら」そのまま手をさらに上に、席を立ってまで高く上げる。「彼女の位置はここだろ?」何もなかったようにアキラは再び椅子に座った。
「なんだ、小皆さんのことか。てっきり高望みをやめて純愛路線に走ったのかと……いや、安心安心。それでこそ高井は男だ! 女なんてアイドルで十分。目に焼き付けて夜に再生するだけの偶像よ」
「田中」
 唇をむぐっと噛んで一本の線にした田中はその隙間に無理やりストローをさしこむ。プラスチック製のストローは真ん中ぐらいで曲がって、白い折り目がつく。牛乳が滞る音を聞きながらアキラを睨みつけると、やつは踏み込みをさらに強くしたらしい。まだつま先の届かない、上靴の先が凹んだ気がする。
「本当に高望みだよおめえは。三十センチ差あって、しかも女子の方が高いんだから。だれがどうみても釣り合わない。チビはチビと付き合えばいいんだ」
 おまえだってちっこいくせに。足を引いて椅子の下に隠すと、アキラはべっと舌を出した。
「道理は道理だ」

 二人で並んで歩いている時、沙月がおれから距離を取ることがある。そこであたりを見渡すと、誰かがおれたちを指差している。決まっておれは沙月との間をつめる。あいつはうなだれて「うーん」と呟く。
 異なる高さで同じ大きさのランドセルを背負っていた日々のことを思い出す。沙月は転入してきた時からすでにおれより背が高かったし、ミニバスやバレーの勧誘を受けまくっていた。このころの女子は発育がよいので、まあいずれ追い抜くだろうと思っていたし、そこまで気にかけていなかった……しかしあいつはぐんぐんと伸びて、学年で一番の身長になって、すれちがう女の先生より高く見える時もあった。おれといえば普通に、人並みに、少し平均より、ちょっぴり、多少、ゆるいぐらいの成長スピードで伸び続け、中学生になった時は背の低い順で一番前に立っていた。沙月は女子の最後尾で、男子の最前列とはまったく対極の位置にあった。幸いなのは、あいつの背が高すぎて振り向いた時にみなの頭の列から飛び出した顔が見えることだった。あいつはうつむいていて、いつ見ても目があうことはなかった……。
「おまえはどうしてそう暗いんだよ。ビシッとしろ! 猫背で歩くな。背が縮むぞ」
「こうくんは猫背で歩いてきたからそうなったの?」
「にゃんだと?」
 沙月はほとんど空気みたいな声でふにゃふにゃと笑いだす。その顔を見ただけで、首の痛みが報われた気がする。
「そうだね。歩くなら日陰だし、座るなら湿った狭い場所だし。わたし、すこし暗いのかもしれないね」
「そのうちカビがはえるぞ」
「明るい子のほうが、こうくんは好き?」
 まだ空は明るかったけれど、日差しは完全に弱まって澄んだ風が吹いている。開け放たれた家庭の窓からただよう、スープ類の匂いに鼻がぴくぴくと動いてしまう。いつの間にかたまっていた唾を飲み込む。斜め後ろから自転車のかすかな走行音が聞こえて、すぐさまおれたちを追い抜かして遠ざかって行く。
「おれはおまえしか好きじゃないよ」
 沙月はおれの顔を見て、進行方向を見た。
「わたしもこうくんのことは好きだけど、でも、バランスって大事だよ。きゅうりにパセリを添えても、えらいこっちゃって思うでしょ」
「えらいこっちゃ! どっちがパセリじゃい!」
 歩く野良猫の尻尾のように、沙月はおれの言葉の横を通り抜けて涼しい顔をしている。好きだけど、でも。べつに心臓を持っている二人が、まったく同じことを考えていながら、それでも見えない物理に竦んでしまう。
 こちらを向くまで穴が開くぐらい見続けてやる。首をしっかりと沙月の方に向けて歩こうとしたら、何もないところで転びそうになる。まるで心配そうに「アスパラガスの方がよかった?」と沙月は小声で尋ねる。ずっこけそうになる。
「はっきり言うけどよ、付き合おうって言ったらおまえは断るのかよ」
「うん」
 膝をついた。
「ああああああああああああ、沙月と恋人つなぎして一緒に登下校したい!」
「それはいいね。でも手の高さが違うからちょっと疲れそう」
「あああああああああああああああああああああああああああああああああ」
 顔を覆った両手の隙間から沙月を伺うと、あいつは鞄につけているぬいぐるみストラップを弄んでいた……おれは立ち上がり、膝についた砂を払って歩き出す。
「あのね、こうくん。もしせっかく付き合ったとしても、わたしたちじゃ恋人らしいことは何もできないよ」
 一歩か二歩だけ遅れて沙月はついてくる。その足ならすぐに追いつくどころか、おれをどこまでも引き離して先に行くことができるのに、あいつはマイペースに進む。
「わたしたちの身長差だとえっちなこととか難しいと思うし」
 その夜はまったく眠れなかったね!
 翌日、学校の行き道で眠たい目をギンギンに見開きながら「何で突然エッチなんだ、もっと先にやることがあるだろうが」と小声で怒ってみたら「えっと、手をつなぐ?」なんて言う。手をつないですぐにエッチなんておまえは初心者かよ! おれが初心者だよ! と首を上下に揺らしたところで、沙月はようやく気付いたらしい。もじもじとしながらおれの耳に息がかかるぐらいの距離に近づいた。歩きながらだったので、沙月の少し丸み帯びた肘がおれの側面に時々ぶつかった。風でなびいた髪から石鹸のような匂いが掠めて、おれは背筋を伸ばしてあいつの言葉を待っていた……沙月は目を伏せながら、しかし上目で、おれより高いところにいながら見上げるようにこう言った。
「えっちってキスのことじゃないの?」
 次の日の体育は眠りながら走ったね!

 その話を聞いてから数日というもの、おれは沙月の隣で背伸びを試みていた。時にはジャンプをしてみたり、一段高いところに登ってみたり……そこでわかったことは、確かに二人の身長差だと「えっちなこと」は工夫なしにむずかしいということだった。まず普通に直立した状態においては唇が触れ合うなんて天と地がくっつくぐらいありえない。おれが背伸びをしても顎を濡らす程度だ。背伸びして、さらにあいつが屈んだ状態でないと到底できそうにない。キスとは今生の奇跡なのである! 互いに互いを想い、つま先や膝に負担を掛けることではじめて叶う恋の試練。それは、なんというか……。
「不自然だ」
 濡れた雑巾を絞ると汚れた水が出てくる。片手を開いてみると、強く力を入れた分だけ手が赤くなっている。同じバケツで雑巾の端を水に浸して遊んでいるアキラが、眉間にしわを寄せておれを見ている。
「おめえさあ、恥ずかしくないわけ?」
「そりゃ恥ずかしかったぜ。『さっきからどうしてタコみたいな顔をしてるの?』って沙月に聞かれた時はよ」
「そういうことじゃなくて、ほら田中を見てみろよ」
 アキラが顎で指した先には、女子から箒で尻を叩かれている田中がいる。「男にヤられるためだけの器官がついてるドスケベのくせにいい気になんなっ、ああんっ、あんっ、叩かないで、あふんっ」と教室の真ん中で両手を上げて踊っている。
「おれはあそこまで恥ずかしくない」
「でも、ああいうのが自然なんだ」
「自然の概念が変わる」
 濡らしたり絞ったりを繰り返すアキラの雑巾を奪って、思い切りに力を入れる。滴る水を見ながらアキラはわざとらしい感嘆の声を上げる。
「女子とふつうに話すなんて、ふつうにおかしいからな。しかも真面目な顔をして必死に口説いてる。素直に。なんのひねりもなく」
 ふつうの何がふつうにおかしいんだ。絞った雑巾を渡して、手についた水を払う。
「好きなやつに好きだってアピールすることに何の問題がある。当然のことだろうが」
「いわゆるまともな連中が合理的なことをやっているのを見たことあるか? 美徳ってのは非合理的なの。栄養があるから野菜を食べなさいと言われて反抗にきゅうりを食うのがクールでカッコよくて要領がいいわけ。だというのにおめえはみんながきゅうりをぼりっている間にアボカドを食らう卑怯者なんだよ。空気読めよ。きゅうりをぼりれよ」
 箒で急所を叩かれた田中が「これだから女子は! これだから女子は!」と床に転がって悶絶している。アキラは田中を横目に教室の端から端までを雑巾で走り拭く。教室も廊下も開け放たれた窓から見える運動場もどこもかしこも人が動いて騒がしいはずなのに、バケツの壁に触れて打ち返される汚水の波の音が激しく聞こえる。
 喩える時のきゅうりの消費が激しい現代、そんなに噛み砕かなくたって相手を信じて率直に説明すればいいのにとおれは思う。