ビーストライプ

新聞部が全校生徒を洗脳するために超人をプロデュースするオンライン小説です。

ビーストライプ

 同じ言葉を異なる人から今月だけで三回聞いた。インターネットで調べてみると、それは有名人の発言らしい。「つまり女体は好きだが女は好きじゃないんだ」これで四回目。
 部室の長机一面にはりつけた、メモ帳代わりの大きな黄色の付箋紙を眺める。書き味の良いボールペンでするすると殴った、警戒色、ミューラー型、ベーツ型、シマウマ、縞パン、権威、名言、そんな言葉たち。
「それより先輩、次の記事のことなんですが」
 黒間先輩は制服からはみ出たパーカーの中から一枚の紙を取り出した。手のひら大の正方形で、先輩のていねいな字が白地をすきまなく埋めている。
「じいちゃんに聞いてきたのよ。初めて蜂に刺された時の感想。おまえの記事に役立ててくれ」
「蜂の記事ですが、止めました」
 差し出そうとしていた紙を手の中で丸めて、先輩はぎこちなく微笑んだ。
「じいちゃんは何のために刺されたんだ?」
「僕のために刺されたんですか?」
「違う。人々に共有されるために刺されたんだ……何の形にもならない経験が何になる?」
「思い出、ですかね」
「おまえは万年見出し係だ!」
 狭いのに広い部室に先輩の声がむなしく響く。実質二人しか活動していないのに、僕が見出し専業になったら、いよいよ月一の発行が間に合わなくなる。誰も期待していないとはいえ、誰かが期待しているかもしれないという期待を奪われることに耐えられる気がしない。
「ちょっと待ってください。良いアイディアがうまれたんです。昆虫特集なんかよりいいものが」
「おれのちょうちょの記事まで愚弄する気か」
 掴みかかってこようとする先輩をコンパスの針で静止させた僕は、誠意を込めて一度だけしか言わないつもりでこう言った。
「この新聞を使って全校生徒をコントロールしたいんです」
「採用」

 学校近くの踏切を越えた先にファミリーレストランがある。僕と先輩は備え付けのペーパーに応援コメントを残すことで店員に顔を知られていた。だから、協力者と出会う時には必ずここに出向く。
「いつものでお願いします」
 注文後に協力者の顔を見ることが僕たちの小さな幸せである。
「いつもので通じちゃった。すごいねえ、君たち」
 爽やかな顔立ちの彼は僕と同学年である。といってもほとんど面識はない。だから、ドリンクバーで彼がコーヒーを選んだことに衝撃を受けた。先輩のフードの裏にはりつけていた付箋紙に、コーヒー、苦味、クール、大人の男、くせ毛、と書く。
 三人で猥談をしていたところで、いつものパンケーキが届いた。一人一皿一パンケーキを食みながら、僕は彼と先輩を交互に見た。
「彼はこの学校で一番有名な男です。そしてこちらが先輩界隈でも一番無名な僕の先輩です」
「どうも、美男子です」
「名前は何だ?」
「佐藤信夫です」
「なるほど、わかった。これからお前の名前は城ケ峰美代だ」
「いったい何が分かったんですかねえ」
 佐藤信夫こと城ケ峰美代は自称するだけある美男で、複数人とただれた関係にあるとのうわさがあった。僕たちが企画の内容をかいつまんで説明したところ、彼は美しい顔をさらに輝かせてパンケーキの段からゆったりと滑り落ちたバターをフォークで押し戻した。
「ああ、それは素晴らしい話だね。ぼくも小さいころから夢見ていたんだよ。己の美貌で死人が出たら、人生たのしいだろうなあって」
 僕たちはすっかり意気投合し、互いに互いのジュースを作りあった。
「しかし計画のためには絶世の美女と付き合うことも念頭に入れておいてほしい」
「ああっ、ぼく、すでに彼女いますけど」
「どれ、見せてみろ」
 彼は財布に挟んでいた写真を取りだして僕と先輩に渡した。今は目前にいる彼と、今はきっと家でご飯を食べている女の子が肩を組んで笑っている。
 先輩は愛想のよい顔で、はっきりと首を横に振った。
「これはおまえの妹の友達ということにしろ」

 新聞部として活動しているのは実質二人だけでも、いつも協力してくれる人たちがいる。たとえば美術部の早苗ちゃん。部活動特集で知り合ってからというもの、毎号で四コマ漫画を描きおろしてもらっている。それから先輩が部室を奪った元文芸部のヤスオキ。彼のコラムはとても読みやすいのに何を書いているのか分からないことで一部の人間に熱い支持を得ている。前にもらったアンケートでは、コラムだけではなくて彼の小説を掲載してほしいと熱いコメントをいただいた。どこかで見たことのある筆跡で。
 本棚やホワイトボードで圧迫された部室には、椅子が二つしかない。僕の席にヤスオキを座らせて、僕はヤスオキの後ろにぴったりと立った。彼はこちらをちらちらと窺いながらも、激しい咳をして先輩をにらみつけた。
「作家の夢が何か、君たちは知っているかね」
「作家志望が何か言い出したよ」
「自分の空想で人が死ぬことさ」
「なんかその理由、もう飽きた」
 先輩の言葉にヤスオキは憤怒で立ち上がり、動いた椅子が股間をぶったので僕はその場に座り込んだ。
「芸術家に共通する精神なんだよ。己の空想によって他者の現実を台無しにしたい。それが叶わない作品は、すべてオナニーである! オナニーって知ってるか。自慰のことです」
 自慰について力説しだしたヤスオキの首をなんとか絞めて立ち上がった僕は、唸る先輩の顔を見る。彼は眉間にしわをよせて、ヤスオキの文章を読んでいた。
「まあ、自慰か和姦かはおいておくとして、もっとイケメンらしい口語体にしてほしい。おまえに依頼したのは全面ねつ造インタビュー記事であって、へたくそな小説じゃないぞ」
「はっ、これだから素人は。むちゃなことを言いやがって」
「おまえだって素人だろうが」
「まあまあ、素人が素人に素人と言いなさんな」
「おまえだって素人だろうが」

 ギター部の面々は椅子に座らせた城ケ峰美代を囲んで演奏を開始した。みなに愛される童謡にアレンジを重ねて出来上がった、原型のない音楽。僕の隣で立って聞いている黒間先輩のフードのひもが弾むように揺れている。「なかなか良い曲じゃないか。城ケ峰美代の高貴さがよく出ている」
 演奏を終えて一番に掛けられた先輩の言葉に、ギター部の向坂ちゃんが涙ぐむ。
「私たちの演奏で人を洗脳できるなんて、感激です!」
「はいはい、わかったわかった」
 城ケ峰美代と言えばギター部の女子たちに囲まれてにこやかに話していた。
「みんなに曲を捧げてもらえるなんて、考えてもみなかったなあ」
「計画が成功したら、曲どころではないですよ。供物でも生け贄でも何でもじゃんじゃん捧げられちゃいますって」
「置き場に困るねえ」
 僕と黒間先輩の人脈で集めた、歌い手たちや録音および編集担当の放送部員らもこの曲を絶賛してくれた。特に、動画投稿サイトで有名になって女の子と仲良くしたいと日頃から話している陣村くんは「今すぐこれでカバー曲を作りたい」と鼻息を荒くしている。
「みんな揃ったことだし、録っていこうか。渡部、おまえはこのカメラを持って撮影係だ」
「いいですけど、先輩は?」
 答えずに黒間先輩は歌い手グループに合流し、Vサインを送ってくる。
「ばっちりとれよ。おれのテノール!」

 城ケ峰美代……城ケ峰美代……城ケ峰美代……。
「はいはい並んで並んで。廊下に出ちゃった人はきちんと通れるように端によって」
 城ケ峰美代オリジナルソングの配布会場こと新聞部の部室には多くの生徒が集まっていた。掃除時間に流したことが良い宣伝になったらしい。会場には「城ケ峰美代……」とだけくり返すオリジナルソングが流れ、その城ケ峰美代は僕と黒間先輩が列の誘導をしている間に曲をダウンロードできるQRコード付きポストカードをみんなに手渡ししていた。
「えへへ、ありがとう。え、これ? 黒間先輩から『雅な画がほしい』って要望があって、茶道部とコラボレーションしたんだよ。ちょっと笑顔がひきつってるでしょう。この時、足がすごくしびれていたんだよねえ」
 美男子がまったりと列を捌いているあいだにも、僕は黒間先輩から受け取ったかごを手に、並んでいる人たちに近づいてゆく。
「こんにちはー。これ、ノベルティの試作品です。よかったらどうぞ」
 派手な女生徒は受け取ったストラップを廊下の照明にかざして「何これ」とつぶやく。
「有志と一緒に作ってみたんです。複数の柄を予定してまして……これは城ケ峰美代が足の小指を打った時をイメージした一品です」
 僕の説明に頷いて、彼女は「そっか。友だちにあげようかな」と一応もらってくれる。その後ろにいる人も、後ろの後ろに並ぶ人も。部室内からも先輩の熱い説明が聞こえてくる。「これは漫画研究会指導のもと作成した城ケ峰美代アクリルキーホルダーだ。授業中にだけ眼鏡を掛ける習慣と授業中によくうとうとしているエピソードを忠実に再現して、鉛筆を宙に浮かせたまま眼鏡が今にもずれおちそうな城ケ峰美代を描いている」または城ケ峰美代の感極まった声「ありがとう、ありがとう……!」そしてまた先輩の声。
「じつはおれ、この曲を歌った一人なんだ。サインしてやろうか? いらない? 城ケ峰美代の神聖さが汚される? ほら宛名の面にでも……友だちにも送るから駄目? それは……良いポストカードの使い方だ」

 新聞部調べによると、ここ最近、城ケ峰美代グッズの盗難が多発しているらしい。
「これ、そんなに良いものかなあ。あ、クオリティの話ではなくてね。ぼくの顔を鞄や筆箱につけてもお洒落ではないよなあって」
 先輩と城ケ峰美代の三人で廊下を歩いていると、嫌でも視線を感じる。特に、城ケ峰美代――が手の中で遊ばせている城ケ峰美代生首缶バッチを血走った目でみんな見ている。
「来場者にのみに配布したノベルティ、しかも試作品ときたら二度と手に入らないレアグッズだからな。既製品ではなく手作りということもポイントが高い。今じゃ職員室でも転売問題が話題になっているぐらいだ」
「無料で配られたものを売るなんて」
「それでも買う人間がいるからな。おかげで余計に価値が上がって、お饅頭がうれしいほど買えてしまう値段に」
「そんな状態が続いたら問題になりそう……」
「そこでおまえの影響力を試す機会が来た」
 放送室の扉をノックして、そのまま開けると待っていたと言わんばかりに部員たちが出迎えてくれた。固い握手を交わしたあとで、むっくりとした放送部の朝水部長が城ケ峰美代をミキサーとマイクの前に座らせる。
「さあさ、さっそく放送しましょう」
「えっと、これって許可が出てるの?」
 不安げな城ケ峰美代の声に、黒間先輩は粛々と頷いた。
「心配するな。新聞部代々伝わる交渉の秘伝を使った。おまえは何も心配しなくていい」
「秘伝?」
「掃除の音楽もポストカードの配布もおじいちゃん先生にぽんやり許諾を得ている」

 顧問にこってり怒られた僕たち二人は、とぼとぼとまっすぐ部室に戻る……わけでもなくコンピュータ部に直行していた。
 コンピュータ部の拠点であるコンピュータ室にはすでにたくさんの協力者が集まっていた。部屋に入ってすぐに、気持ちの良いキーボードの打鍵音が聞こえてくる。僕たちは空いている席に座って、すでに立ち上がっているパソコンからミニブログやSNSにアクセスする。
「順調にフォロワーが増えているな」
 僕が立ち上げた城ケ峰美代のオフィシャルアカウントには、どんなささやかな投稿でもコメントが絶えない。それは帰宅部の生徒を総員して返信させているからでもあるし、コンピュータ部の鹿目くんに作ってもらったBOTが自動で反応してくれるからでもある。
 学校関係者から芋づる式でつながったフォローもほぼ全校生徒および教員、あるいは彼らの裏アカウントまで網羅できた。おかげで新聞部としても半年ほどネタに困らない状況だ。
「おっ、名言BOTに放送の分が追加されてるぞ」
 公式に依頼して作られた非公式・城ケ峰美代名言BOTはその名のとおり、城ケ峰美代の名言を自動で発言してくれる。先輩が指さした先には、あの感情のこもった「みなさん、ぼくのために争うのはやめてください」が投稿されていた。
「そういえばキャンペーンの締め切りもそろそろだな。最終告知とコメントを投稿しようか」
 ミニブログに投稿する文章はすべてヤスオキやその愉快な文芸仲間たちに依頼していた。僕は先輩のフードから取り出した原稿メモを読んで、そのまま打ち込んでゆく。

【最終告知】城ケ峰美代フォローキャンペーンの締め切りが迫っています! 参加方法は城ケ峰美代をフォロー&RTするだけ! 抽選で3名様に城ケ峰美代グッズをプレゼント! #懸賞 #プレゼント #城ケ峰美代

消しゴムのカスは手で集めてゴミ箱に捨てよう #城ケ峰美代の今日の一言

 もちろん僕たちの工作活動はこれだけにとどまらない。学校裏掲示板にアクセスすると、すでにスレッドの一覧が「城ケ峰美代」の文字で埋まっている。
「先輩、『城ケ峰美代について語るスレ』がもう5スレッド目ですよ。『好きな城ケ峰美代の体勢』や『城ケ峰美代の寝癖観察』も新スレが立っていますし、今は『城ケ峰美代のユニフォーム広告』が盛り上がっているみたいですね。なんだろ……ああ、城ケ峰美代のロゴの入れ方が一番カッコいい部活について話しています。『★☆城ケ峰美代のテスト情報☆★』はさすがに過疎っていますね。給食の雑談スレになっちゃってる……」
 そこまで話したところで、先輩がめずらしく黙っていることに気づいた。腕を引っ張っても何か考え込んでいるようでまったく気づかない。フードをかぶせてみても、前髪が垂れるだけ。
「死ん……でる?」
「なわけねえだろ」

 号外、号外だよ。黒間先輩は一人でぼそぼそと呟きながら廊下や階段前の掲示スペースに新聞をはっていた。せっせと働く先輩の背後で両手に腰を当てて少しふんぞり返りながら完成物を眺める。書道部に決めてもらった「城ケ峰美代特集号」の文字、早苗ちゃんの描いた四コマ漫画「城ケ峰美代、子猫ちゃんに竹をやる」、僕が考えたリード文「人類の最先端こと城ケ峰美代が今後の進路を語った」、ヤスオキの書いたまったくでたらめのインタビュー記事「ええ、ですから勉強道具をロッカーに置くことはまったくナンセンスなわけです」、写真部が撮影しコンピュータ部が加工してさらに美しく仕上げた城ケ峰美代のバストショット、黒間先輩の手がけた紙面レイアウト、そして掲示および配布の許可をくれた生徒会の認定印……僕は先輩のフードで涙をぬぐって、ついでに咳き込んだ。
「しかしよ、渡部。ここまでして何になる?」
「号外を出すことで城ケ峰美代の注目度が高まっているように見せかける。そう提案したのは先輩ですよ」
「そうじゃなくてな。ここまで来るのに、おれたちは五〇〇人の協力を得たわけだろ」
 黒間先輩はフードから取り出したメモ帳をぺらぺらとめくる。のちのち協力者として名前を載せるために、今まで助けてくれた人たちについて記録していたのだった。それは分厚いメモのほとんどを使ってしまうぐらいの人数で。またこみ上げてくる。
「長い道のりでしたね……でも、まだこれからです。城ケ峰美代を最強の強者に仕立て上げて、みんなに真似させる。その集大成が次号になるって、説明してきたんですから」
「ああ、いちいち目的を語って、説得して、協力してもらったな……でもな」
 黒間先輩はまだ壁に貼っていない号外で筒を作り、僕の耳に押し当てた。
「この学校、五〇一人しかいないぞ」

 毒を持たない生物が、毒を持つ生物の警戒色を真似して少しでも生存の確率を高めようとする擬態と、僕たちの計画はまったく違う話だ。
 城ケ峰美代が何を意味するのか、たった一人を除いてみなが知っている。城ケ峰美代は共通の挨拶のように口ずさまれる。だれも傷つけない話題として城ケ峰美代が選ばれるようになる。城ケ峰美代にまつわる新情報が何のためらいもなしに自然に伝播してゆく。ただ一人、学校を休みがちな生徒を除いて。
 頭を抱えている僕に、椅子の後ろにぴったりと立っていた黒間先輩が声を掛けた。
「まあ気にするな。失敗はだれにでもある」
「僕は、自分の願いが叶わなかったことを悔やんでいるわけではなくて」
「みんなだって許してくれる」
「そんなこともどうでもいいです」
「どうでもいいとは何だ。ノベルティの作成費や協力者のおやつは部費から出したんだぞ」
 僕が立ち上がると、動いた椅子が股間をぶったので先輩はそのまま座り込んだ。
「ただでさえ孤独な人を、僕はもっと一人ぼっちにしてしまいました。彼女はますます学校を嫌になるでしょう。自分だけが知らないことを、みんな知っているんですから」
 先輩は僕の肩を持ってぷるぷると中腰になりながらも「そんなことはない」と言ってくれた。壁と椅子と机に挟まれた僕と先輩は近すぎるあまり、息をするのもやっとで、その先輩の息というのも餡子の匂いがした……。
「みなが仕掛け人となった今、もはやたった一人しか変えられない。その変えるということが、なんと圧倒的な、暴力的なことか」
「企画当初から暴力的だったと思うぞ」
「先輩、僕たちは牙を抜くべきです。爪を丸めるべきです。一万匹の化け物が、一匹の小鼠の生活をおびやかすことのないように、ささやかに生きるべきです」
 机に貼っていた、立てかけていた、切り刻んでいた、城ケ峰美代のあらゆる写真、コラージュ、似顔絵、イラストレーション、アスキーアートを指で辿りながら、黒間先輩は言った。
「おまえの目標は全校生徒をコントールすることだったな」

10

 なぜだかしんとしている。誰もいないみたいに、足音が無限に響く。こんなに晴れた日なのに辺りは暗く、教室を覗きこむとがらんとしている。今日は何かの記念日だっただろうか。君はそう思っているのかもしれない。
 君は足を止めて教室の扉を開ける。やはりだれもいない、と思いきや君の席に僕が座っている。君は一度、廊下に出て自教室であることを確かめたのち、ふたたび教室に入ってこちらに近づく。
「えと、あんた、クラス間違えてない?」
「僕は君に会いに来たんだよ。梨本諒ちゃん」
 まるで漫画や挿絵のある軽い小説みたいな出来事だ、と君が感嘆しているかどうか僕にはわからない。ただ君は訝しげな顔つきで僕の前の席に腰を下ろした。
「あんた、見たことある。新聞部の変人だ」
「違うよ。変人が二人いる新聞部の渡部だよ」
 君は肩をすくめて、鞄を膝の上に置く。鞄の留め具には見知ったストラップがぶらさがっている。
「どこで手に入れたの?」
「友だちからもらった。よくわかんないけど、最近流行ってんらしいね。これ」
 運命を感じたように片手で顔をかくして首を何度か横にふった僕の姿を君は見てくれただろうか。目を覆っていた手を退けた時、君は鞄の中身をチェックしていた。
「そんで、なんでだれも居ないわけ。緊急集会でもやってんの」
「緊急であることは間違いないね。それもおそろしい大事件だ」
 真っ白な君の手が鞄からすぽっと抜けて、スカートを撫でつける。
「何があったの」
「城ケ峰美代がみんなを支配して、講堂に立てこもっている」
 神妙な顔をして君は口を開く。
「誰それ」
「そのストラップに描かれた偉人だよ。彼は僕らにとってカリスマ的存在で、みんながほしいと思うものは何でも持っている。だから僕たちは彼の言葉に服従する。城ケ峰美代は僕らの理想で、人は己の理想を疑わないから。彼が遊ぶのにもってこいの良い天気だと言えば、土砂降りのグラウンドも賑わい、彼がリップクリームを取り出せば、男も女も唇がつやつやになる。そして今日、城ケ峰美代は学校に嫌気がさした」
 席を立ってそのまま教室を出ようとした僕に、君は声を掛ける。
「あんたも行っちゃうの」
 振り向くとなぜか君が僕の背後をとっていた。廊下に出て距離を取りながら頷く。
「僕たちは、弱い。だから強者の真似をして生きるしかない。たとえ、それがおぞましい獣に近づくことだと知っていても、そうしなければ生きていけないんだ」
 君は少し口を開いて、そのまま閉じる。再び前を向いて、僕は講堂に向かって歩き出す。
「君の友だちもきっとそこにいるよ。良かったら、君も僕たちと同じになろうよ」
 足音は僕のものだけ。
 講堂に入ってすぐ、僕の足下に転がっていたうつぶせの生体を蹴ると「うう」とうめき声を上げて黒間先輩が起き上がった。
「城ケ峰美代はどこにいるんですか」
 先輩は背中をぼりぼりと掻きながら、顎で演台を指す。そこにはマイクを手で叩いて放送部に怒られる城ケ峰美代がいた。彼は掴みあったり投げあったりしている生徒達を見下ろしながら覇気のない棒読みで扇動する。
「あらそえー、あらそえー」
 また一人、誰かが転がってくる。ヤスオキは腕を押さえながら「作家の命が! 作家の命が!」と叫んでいる。吹奏楽部もギター部も不快な音楽を奏でることに夢中で、書道部は校長の頭部にまつわる悪口を紙に書いてほくそ笑み、サッカー部は半裸でエアサッカーに励み、コンピュータ部は家から持ち出したノートパソコンでアダルトサイトを見ている。
 狂乱をくぐりぬけて僕と黒間先輩はなんとか壇上の城ケ峰美代にまでたどり着く。先輩が肩を叩こうとすると、彼はそれを勢いよく振り払った。
「触れるな、愚か者」
「あ、あの城ケ峰美代が興奮している」
「こう見えても黒間先輩は先輩なのに……」
 フーフーと威嚇してくる城ケ峰美代を横に、僕たちは改めて下々の様子を見物する。彼らにしても熱が入りすぎだ。ヤスオキの作家生命はともかく、講堂の床でマットもなしに人を投げるなんて、一歩間違えばそれこそ生命が終わる。ヤスオキの作家生命はともかく。
「おい、危険行為を今すぐやめさせろ」
「ぼくはもう、君たちの言いなりにならないと決めたんだ!」
「おれたちを極悪人みたいに言うな」
 いつもそうだ、と城ケ峰美代はマイクから一歩離れて僕たちに向き合った。
「人を動かしたいという思いで参加したのに、いつのまにか君たちに動かされていた。ぼくはただの傀儡、権威の象徴でしかない」
「いいじゃないか。象徴は死なないぞ」
「ぼくは不老不死なんて目指してない。人として当然のことをやれとお願いしたいわけでもない。こうやって、ぼくの力でみんなにいつもなら絶対にしないことをさせたかったんだよ!」
 城ケ峰美代の叫びがマイクに拾われ、止める間もなく拡散される。
 生徒達はさらに熱狂し、講堂の中央で組み体操が始まる。
 陸上部が人間ピラミッドめがけて走り出す。
 痛がるヤスオキの周りにイエローカードが撒かれる。
 もはや正気なのは変人が二人いる新聞部だけ、そのうちの一人である黒間先輩も便意を催してトイレに行ってしまった。
 いったいどうすれば……項垂れる僕はすぐに気づかなかった。
 君が城ケ峰美代を箒で殴りつけ、マイクを奪ったことに。
「みんな、やめなよ! こいつは……城ケ峰なんとかはあんたらが目指すべき理想像じゃない。死角から箒をフルスイングされたら倒れる、ただの人間なんだよ!」
 みなの争いがぴたりと止まり、壇上に視線が集まる。ただの人間である城ケ峰美代は床に横たわって安らかに眠っていた。
「弱くても、いいじゃん! ライオンのたてがみをつけたって、墜落する飛行機には勝てっこないよ。そしてあたしたちがほんとうに抗うべきは、その墜落なんだ。だからみんな、それぞれの形で、ぴったりとくっついて、埋めあって、ふかふかのクッションになる。それでだれも傷つかなくて済むんだよ」
 もはやヤスオキの呻き声すら聞こえない。
 聞こえるのは、足音だけ。
「おまえは、ただ一人、みんなのために立ち向かった」
 黒間先輩はハンカチをフードに戻しながらゆっくりとこちらに近づき、呆ける君の前に立った。
「そして、みんながおまえのために動いた」
 先輩の右手が上がる。
 すると先ほどまであんなにいがみ合っていた生徒たちが、各々の役割を思い出したように、配置につく。
 それは一見、ただの整列に見えたし、実際そうだった。だけれど君が僕たちの計略に巻き込まれたことに気づくにはこれで十分だったらしい。僕たちと彼らを交互に見る君への最後の一押しとして、列の真ん中で「ドッキリ」と描かれた札が上がった。
「そうとも、ここで擬態をする必要はない。隠れなくても、逃げなくても、生きたい形で生きればいいんだ」
「あたしが、女の子のことが好きで、友だちと自分の体操服をこっそり入れ替えて喜んでいる変態でも?」
「……生きればいいんだ」
 そっか、と呟いた君の次の言葉をかき消すように、ギター部と吹奏楽部が演奏を、写真部が記念撮影を、コンピュータ部がエッチな動画鑑賞を、帰宅部が帰宅を始め、その混乱に乗じておじいちゃん先生の静止を振り払った僕たちの顧問が怒鳴り込んでくる。僕たちは君の手を引っ張って別の扉から講堂を脱出する。追っ手が見えなくなるまで、どこまでも走って。滑って。転んで。笑って。城ケ峰美代を置いて。
 さて、城ケ峰美代の謎を最後の一人まで知られた上に、ドッキリの調整の間にひっそりと忍び寄っていた次号発行日。掲示板に貼った新聞を見て、僕と先輩は同時にため息をつく。
 そのぎっちりとした黒い紙面には「城ケ峰美代」の一文字もなく、ちょうちょの記事が載せられていた。