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「好き」の不条理によって女子高校生が変人と交際するオンライン小説です。

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第14話 傘を見つけた。

現実の雨には虫時雨も鳴りをひそめる。
強く打ち付ける雨風に細い枝が震える。どこかで水の流れがごうごうと鳴り響いてる。バスの遠ざかる音すらかき消えてゆく。ぱしゃぱしゃと歩いて校門を通る。燃えた色の落ち葉がアスファルトにはりついている。小学生のころ、通学路には用水路があった。雨の日はふと立ち止まって濁りきった深い流れをじっと見ていた。何もかもを巻き込んであふれんばかりの濁流を、靴下をじわじわと濡らしながら。
最近、よく昔のことを思い出す。

机に突っ伏していた東間くんのつむじを見つけて、鞄を机に下ろす。席について黒板をぼんやりと見つめていると後ろから近づく気配がした。
「雨や曇りの日は、なんでか視力が落ちる気がするな」
問いのようなつぶやきのような言葉に私は顔をあげる。腕を組みながらまっすぐ立っている田代くんがそこにいた。
「おはよう、本山サン」
「おはよ。雨や曇りというより暗い時に視力が落ちるんじゃないかな。瞳孔が大きくなるから、ピントが合わないとか」
まったく良いことがないんだ、と田代くんは肩をすくめて私の前の席をどっかりと借りて東間くんを一瞥したあと、こちらを向く。
「雨は散漫とするからよくないな。空気が澱む」
「そうだね。今日は風も強かったから余計に朝から疲れたよ」
「斜めにさしてくる雨は防ぎようがないもんな……傘はなんでこんなに進歩がないんだ? 再生機器なんかは面白いものがたくさん出てるのにな。スピーカーを内蔵したテーブルを商品として販売する精神が傘業界には足りない」
「なにそれこわい」
ご飯を食べている時に、テーブルから穏やかな音楽が流れてくる日曜日を想像する。NO MUSIC,NO LIFEの精神がLIFEの解釈によってここまで体現される現代、近寄りがたい。
飛ばせるウェアラブルカメラが腕に巻いて持ち運べるぐらい軽量になった時代に傘がいかに進歩がないかを二人で語っていたところで、ぺったんぺったんと頭に薄いタオルを乗せた後藤くんがやってくる。
「最近はケッコー、面白い傘あんよ。こう、体にベストストラップでくっつけて両手ガラ空きで使える傘とか、逆方向に折りたためる傘とか」
「逆方向?」
「濡れる側が内側にくるように畳めてー、水滴とかが落ちないみたいなヤツ」
「おっ、普通に便利だな。後藤がそんなことを知っているとは」
「意外だね」
「進歩だなー」
「おんおんおん? なんか二人、軽く俺のことディスってね?」
ディスってないディスってないと田代くんと顔を見合わせて頷いていたところで、私の背後から腕がぐわっーと伸びて抱きつかれる形で背中にいたずらなナミちゃんのやわらかな温かみが伝わり二人が四、日々が幸せ。
「日傘はね、持ち手や骨が入っているキットがあって自分で手作りできるんだよ〜。かわいい布を切ってー、縫つけて、紫外線防止スプレーをふりかけわかめするだけでビバっ、世界で一つだけのパラソル!」
「だいたいの機能が揃ってくると、そうやってカスタマイズできるのがウリになるよね。透明ビニール傘にも内側から貼るタイプのカスタマイズ用シールがあるよ。他の人のものと区別できるように貼っているんだけど、いろいろな柄があって楽しくて」
「へえ、意外」
「意外だなー」
「意外〜」
かつて私も集めたシールを友達と交換したりシールブックに貼ってニカニカする女の子だった。むくれていると、後藤くんがのんびりと口を開く。
「ビニール傘とか使うイメージゼロなんだけど」
ずるっと後藤くんの頭の上に乗っていたタオルが落ちる。わあわあと拾う後藤くんのうなじを見ながら赤い長傘や折りたたみ傘が回り灯篭のように浮かぶ——宙にぷかぷかくるくると浮かんで消える傘たち、からかさ小僧だった。
「休日と学校用で分けていて」
「その使い分け、なんとなく分かるかも〜。学校に持っていく財布とおでかけで持ち歩くお財布が違うみたいな〜」
「それそれ」
肩にかけていた鞄に拾ったタオルを無造作に入れ込んだ後藤くんは、背後に這い寄る混沌にも気付かないまま、いくらか唸ったのちに勢いよく顔をあげた。
「アレ! アレっしょ! 外出するときはボクサーブリーフで、休日はトランクスみたいな!」
「ふざけんじゃねーぞ後藤」
「うおっ、い、いたんですかっ!」
いたんじゃボケ〜、と有紗に後ろからくすぐられる後藤くんをみて何かくすぐられたらしいナミちゃん。後藤くんの笑い声に紛れる小ささで「ふぇっふぇっふぇっ」とご満悦。くしゃみが出そう。
「後藤はマジで頭沸いてんなあ。こういう時の例は普通にあれっしょ……勝負下着!」
「俺と一緒じゃね?」
「一緒だね」
「一緒だなー」
「一緒〜」
全然違うわボケー、と有紗に後ろから両ほほをつねられる後藤くんをみて笑う私たちに対してがばっと起き上がる隣人を盗み見る。
たおやかな微笑みの中で朝の挨拶が紡がれる。
うるせえ、と目だけが雄弁に語っていた。

「それにしても後藤はヘタレですよ、ええ。あんなヘタレ男、ボーイズラブでしか見たことがない!」
しかしヘタレ攻めもヘタレ受けもよいすべてがゆるされている尊い——ぶつぶつと呟く近藤さんの隣で軽くなったお弁当包みをぷらぷらと揺らして、湿気った廊下を歩いてゆく。
「私には進展しているように見えるけどな。じゃれついてるし」
「高校生の男女がじゃれついている時点でもうおかしいんだって。後藤は有紗に完全に男として見られてないよ! じれってぇ、じれってぇ」
近藤さんが片手で頭を抱えてみせたところで、同じポーズをした人が前方からやってきた。二人は顔をあげて立ち止まる。私もそれに合わせて足をとめ、見合わせた。
「富田くん、どうしたの?」
「その……パズルを押し付けられてさ。これを解くまで教室に入っちゃいけないんだって……」
幼馴染がコミカルないじめの対象にされている。私がそっと目を背けた方向の近藤さん、目を輝かせて大きく口を開く。
「知恵の輪! 富田君、よかったら私やってもいい?」
「うん。やっちゃってください、お願いします」
てやんでー! と広げられた両手に富田くんがぽとっと知恵の輪を置く。近藤さんはいったんそれを握りしめたあとで、恍惚に浸る。
「知恵の輪、懐かしいなあ。ちょっと前までずっとカチャカチャしてたよ。ずっと解けない知恵の輪を握りしめて朝、目覚めたこともあったっけ……なんでやめちゃったんだっけなあ」
はっと気づいたようにして近藤さんが知恵の輪に集中しはじめる。廊下を行き交う同級生らの視線を受けて廊下の端に移動しつつ、近藤さんの手さばきを見つめる。
「そういうのあるなー、俺も。ネットで話題になっていて、ああ、これ昔好きだったなあって、その想いを辿ってゆくと、いつ止めてしまったのか、どうしてやめてしまったのか、さらに遡ってなにがきっかけで始めたのか、そもそもなんで好きになったのか思い出せない時がある。好きの最中は、単純に好きなだけだったような気もする。でもその単純さってどこからきたんだろう」
カチャカチャとした音から雨つぶの垂れる音まで聞こえた気がする。
「そうだねー。何事にもはじめるきっかけがあって、好きになる理由があったんだろうけど、でも、もしその理由を解明しちゃったらさ。未来に好きになるものが分かっちゃいそうで、私は結構こわいなー」
「こわい?」
「人間、さあ。嫌いなものや興味をひかないものよりかは、好きなものがあってほしいと願うでしょう。それはあくまで理想で、本当は好きなものだけで人生って構成できないけど、それでも人生の中にある苦痛って結局は路方なわけじゃない? 苦しみや辛いことがゴールなんじゃなくて、ゴールは楽しみや嬉しいことだって……ゴールを探して目指すその途中が不安できついだけで……自分が何を好きであるのか、好きになれるのかがきちんと分かったら、もうそれ以外は目指すに値しなくなりそう。その理由に当てはまりそうなものだけを探して、味わっておけばいいから。余計に苦しまなくていいから。分かった範囲で踊れるから。でもそうやって、人生を小さくしてしまうことがこわい。見知らぬ果てに、もっともっと好きになれるものがあったかもしれないのに」
まーギャンブル思考だと思うけどね、と締めてカチャリとすべて紐解けた音がした。
「人生の中にたくさんあるのがいいんじゃなくて、たくさんの中に人生があってほしい」
「えっ、ど、どしたの本山さん!?」
「ミユちゃん、大丈夫!?」
知恵の輪が解けた喜びを分かち合っていた二人が、私のつぶやきに目を見開き、騒ぎ出し、肩を掴んで揺さぶる。かつて私も——と思い出すことのできる自分がいただろうか。
「私、そんな変なこと言ったかな」
「変なことは言ってないと思うけど……あれ、おっかしーな。なんで今、すごく動揺したんだろう?」
「う、うん。冷静になってみるとなんか言っている内容はそう変じゃないよ。でも、幼馴染観点からすると……」
私の肩から手を離してうんうんと唸る二人。知恵の輪は解けても、人生に謎は尽きない。ぱん、と手を叩いて鳴らす。先ほどまでの静けさが途端に色づく。
「返しに行こう。いつまでも路方にはいられないし」

はじまりに怒号が飛んだ。
「女を二人も呼んできて! 富田はなんなの! ヤリチンさん!」
「チンさん!」
教室の窓から廊下側に顔を出す風間くんと小鳥くんに、おそるおそると解いた知恵の輪をさしだす富田くん。ふたつに分かれた銀色のきらめきを、小鳥くんがぱしっと掴みあげる。
「まだまだだね、とみとみ。二人を呼んだら、二人のどちらかに解いてもらったことがモロバレリーナじゃがな」
「ああ、うん。ミユちゃんと同じクラスの近藤さんに解いてもらって」
紹介を受けて丁寧に頭をさげる近藤さん。二人も姿勢をぴしっと正して一礼したのち、すぐにだらりと窓枠に寄りかかり、富田くんに顔を近づける。
「まーーーーーーたオナウマのオナクラかよ。富田は芸がないな。チンパンジーだって芸の一つや二つありますですよぅ、チ・ン・さ・ん」
「芸をしているチンパンジーってへらへら笑っているけど、あれはグリマスって言ってね。強者に対する媚びへつらいの顔なんだよ。たいへんな恐怖を感じて服従の態度を示しているってことだね。あの笑顔とそれを見て喜ぶ観客とコーナーワイプで不自然に真っ白い人工歯を晒して笑う芸能人の姿に現代の闇がぎゅっと凝縮されているといっても過言じゃないよ。つまるところ、とみとみは常闇」
解説をうけてへえと感嘆する私と近藤さん、の隣で引きつり笑いをしている富田くん。あっ、これグリマスだ!
「ちぇっー、俺は富田に解いてもらおうと思って持ってきたんだぜ。それをよお、女子のなめらかな指で、あんなことやこんなことにされてしまうなんて……」
「蹂躙してやりましたー!」
片手をぴんとあげる近藤さんの顔をじっと見たあとで、風間くんは頭を抱えてくねくねしはじめた。
「あーっ、あーっ、俺も知恵の輪になりてぇー! 来世は知恵の輪になるー!」
「なるー!」
ハイタッチをする二人を見て、がっくりとうつむく富田くんあれば、鼻息を荒くして私にちらちらと目配せをする近藤さんがいる。目配せされても。私は天井と教室の壁の境目をみつめた。

勉強道具を机に広げていると、ちょんちょんとだれかの人差し指が私の机の端を叩く。顔を見上げれば、どこかそわそわした様子の小畑くんがいた。
「東間さ、知らない?」
ちらりと横を見る。鞄はまだ机の横に掛けられていた。
「分からないかな、ごめんね」
「いやいや、謝らなくていいよ! うーん。今日、ずっと捕まらないんだよね。話しかけようとしたら寝てるか、いないし」
「朝もそうだったから、体調が悪いんじゃないかな。東間くんがそうかは知らないけど、気温や気圧の変化で頭痛になる人もいるらしいし」
そんなものかな、とつぶやいたのちに小畑くんは視線を落とした。
「残るの? 一人?」
「残るってほどじゃないけど、先生に質問したいことがあるから要点をまとめようと思って。一人なのは……みんな部活や習い事があるし、これは個人の問題だから」
みんないろいろやってるよね、おれもやればよかったかな、やっぱり運動部? そうなるのかな、陸上部なんかは興味があったけど、入らなかったんだ、自由が惜しくて、わかる、でもいざ空白の時間があるとすごくそわそわする、わかる、このまま時間を潰していいのかなあってさ、わかる、何か一つでも成し遂げることができたならなあ。
ばいばいと振った手を下ろす。だれもいなくなった教室を、座ったまま見渡す。どことなく広く見える——がたがたと不揃いに並んでいるどの机の上にも何も置かれていない。私は勉強道具をしまう。今のところ、先生に尋ねることはない。
ひっそりと教室を抜け出して、階段を降りて、昇降口の方を覗く。
傘立てを正面にして秋永くんが立っている。
ちらりと視線がよこされる。
「小畑くんにはなんて言ったの?」
「特に。おつかれって話して、それでおしまい」
「傘のことも?」
彼は片手に持っていたビニール傘を一瞥したあと、それをがらりとした傘立てにおさめた。
「小畑はそこまで気の利くやつじゃない」

いつもは朝だったけど今日は放課後にしてみた、と彼はぼんやり言って教室中央の机に腰を掛けた。私は教卓の椅子に座る。絶妙に揃わない高さで見つめ合う。
「朝は練習で早く来るからいいと思うけど、放課後はさすがにリスクが高いんじゃないかな」
「小畑が来た時、死ぬかと思った」
「だよねー」
私たちは声も立てずに笑い合う。無意識でなぞった教卓の表面が、チョークで汚れていたのに気づく。いつのまにか描いた軌跡を見下ろす。
「あの。大丈夫だと思うよ」
「……何が?」
問いたいのは私の方だと思いつつ、深呼吸をしてゆっくりと息をしずめる。
「私の友達の弟はね、女装をするのが趣味なんだよ。たまに女装した姿の自撮りを送ってきてね。えっと、自撮り棒って知ってる? 自撮りをするときに使う棒で、それをわざわざ用意して、いつも同じ角度で撮影しているんだって。ポイントは一枚の写真の中に絶対スカートを写すことで、足は本当、引くぐらい綺麗に剃っているんだよ」
「……だから?」
「秋永くんが傘に異常な愛情を寄せるド変態野郎だとしても、世の中には思ったよりも変質者が多いから、そう、苦しまないで……ファイト?」
えーほい、えーほい、えーほい。元気の良い掛け声とダッシュの音が開けたグラウンド側の教室窓から聞こえてくる。そういえば秋永くんは部活に行かなくていいんだろうか。秋永くんは外から聞こえる声が遠ざかるのを待って、微笑を作る。
「本山ってなかなかユニークだね」
人の傘を盗み続けて平然とクラスメイトづらをしていた人も十分にユニークだ、とヒニークを念じていたところで秋永くんがだれかの机からひょいと降りる。
「べつに傘に興奮しているわけじゃない。それだったら本山以外の傘だって盗るし」
こちらに向かって歩き出す。
「だったらなんで?」
「クラスで一番高そうな傘を持っていたから」
日に焼けていたはずの顔はどこか青白く思われた。
「二本目も立派な傘で、その二本目がなくなってもなお何の問題にもしなかったから」
ここからでは彼の指先が見えない。
秋永くんは教卓の前で立ち止まり、私を見下ろしていた。
「高い傘を持っていたからって、だからってビニール傘まで盗まなくたっていいでしょう」
「本山の持っているものは、なんでも高そうに見える」
「ビニール傘でも?」
「ビニール傘でも。あんなに工夫して、それだけの余裕があって。羨ましい」
身を乗り出した彼の顔が近づいて、私に影が落ちていた。
「秋永くん、私はそんなに羨ましい人間ではないと思うよ」

「秋永くんの考えていることって、私の考えていることとそう変わりがないと思うな。
「新しくできたお店に行くのはすごく楽しい。
「何もかもキラキラして見える。
「だけど二度目はぱっとしない。
「そのうち、何度も行かなくなる。
「また新しい店を探す。
「行きつけのお店がない。
「常連という言葉を聞くと寒気がする。
「店員に顔を覚えられるとうんざりする。
「自分であることを覚えられないように行う創意工夫に疲れるし呆れる。
「慣れてしまうのは退屈だよね。
「退屈はいやだよね。
「いやなのはいやだよね。
「どうせ無意味なら楽しいことだけをしていたいよね。
「盗むのだってそうでしょう。
「ドキドキするんだよね。
「ドキドキしたいんだよね。
「だからわざとバレる寸前までやってみたかったんでしょう。
「余裕があることを羨みながら余裕のなさを愛していたんでしょう。
「もっとドキドキする?
「退屈だな。
「私、退屈しちゃったよ。秋永くん。
「秋永くんもそうだよね。
「私にはもうバレちゃったし、ドキドキもなくなるね。
「どうするの?
「ドキドキがないと生きていけないよ、私たち。
「終わったことは忘れて、新しいことを探さないとね。
「だってそれ以外は本当に無意味だもの。

「かわりがないなんて、よくそんなひどいことを言えるな」
私の両肩が教卓越しに強く掴まれ、ギラついた目つきが私をつき刺した。
「ひどいかなあ。私には安心するフレーズのように思うけど。みんながみんな、同じことを考えれば考えられるほどこの世のありとあらゆる争いはなくなるよね。だからみんな、完璧な言語を求めているんでしょう。きちんと届いて正確に真理だけを伝えられる完璧な言語。そんな時に、不完全な言語のもとで大して変わりがないことを考えられてしかも伝達によってそれを共有できるなんて、きわめて幸運だと思うけど。見解が同じ間は平和が続く。違うのかな」
しばらく見つめ合っていたが、秋永くんが目を逸らした。そのまま私から後ずさるように距離を取る。彼の後ろにあった教室最前面の机が秋永くんの動きをうけて斜めにずれる。秋永くんはそれを直さない。私も直さないでおこう。机の主は何に気付くだろう。気づかないだろう。彼はそのまま教室を出てゆこうとする。私は呼び止める。
「サボタージュ?」
「……やめたよ」
「やめた?」
「正確には謹慎処分。でも居づらいから、どうせやめる」
言い終えたとばかりに完全に背を向けた秋永くんに、投げかける。
「そう、よかったね。これからはたくさん眠れるよ」
振り向いて、ガッチリと視線が噛み合った。
「どうせ意味もないのに神経をすり減らしてまで頑張る必要なんてないから、だから、秋永くんが幸せになれてよかった」

ばったりと出くわしてしまった、と思った。出くわすというよりはちょうどその時にでてきたのだ。私と彼はハンカチーフをたたんでしまおうとして、やめる。好奇心に駆られて私は口を開く。
「気持ち悪いな」
二人の声が重なって、いよいよと私たちは向き合い顔を見合わせた。
「気持ち悪いってなんだよ」
「東間くんだって、そう言ったでしょう」
「おまえがそう言う気がしたんだよ」
「だとして、なぜ東間くんが重ねる必要性があるんだろう。分からないな」
「まずはおまえから質問に答えろ」
やれやれ、と肩をすくめる。普段はあんなに綺麗なことを言ってさも良い人間かのように見せかけているくせに、実際はこんなに面白みのない人間じゃないか。

「東間くんがそう言うと思ったから」

時雨れる感傷を窓越しに遠ざけながら、私と彼は同じ方向を歩く。荷物を置いている教室の方へ。すでに人気のない教室の方へ。水粒で出来た足跡が廊下にたくさん残っている。私たちはそれを上履きの底で踏みならす。
無言のまま並んで進み、または一歩遅れようとして、もしくは速めようとして、しかし依然と横並びをやめられず私は不意にぶるりときた体を両手で抱きしめるようにさする。
ちらりと隣をみてみれば、同じようにして凍えている東間くんと目があった。
「この時間帯にもなると、そうだね。寒くなってきたね」
「そりゃ、そろそろ、そういう季節だからな」
私たちは明確に別れようとして、同時に立ち止まった。
もはや互いの顔を直視することは困難のように思われた。