いつもよりインスタレーション

男子高校生が高校デビューをするオンライン小説です。

いつもよりインスタレーション

 やるべきことをやらなかったために、やらなくてもいいことをやった。たとえば今日の英語の予習を昨日やらなかった私は、いまだ息をしている。
 困難というものがある。たとえばこの通学路。家は低い位置にあり、学校は高い位置にある。つまりそこには坂がある。大きな斜面はだんだんに刻まれている。この階段をのぼるころには男子高校生の健康な関節軟骨がほんのわずかにすり減る。ほんのすこし。だから一日や一週間、一ヶ月に、一年、さらに三年ほど続けたところで、人の歩みは止まらない。しかし、学校を巣立って、大人になって、この通学路のことを忘れてしまったとき、今までの疲労が激しくわれわれを襲い、二度と無邪気にスキップできない体に作りかえる。
 腕に止まった羽虫を払っていたところで、声をかけられた。私たちは黙って残りの段をのぼり、校門が見えるところまで並んで歩いていたが、朝の挨拶運動を行っている生徒会長の姿を認めるやいなや、野之乃は私の肘をつまんだ。
「あんなやつは学校のトップになる器ではありませんね。情報によるとふだんは十月に生徒会長の任命が行われるようです。しかしですね、悠長に待っていられますか? あと六ヶ月。僕たちはあの間抜け顔を毎日見ながら登校しなければなりません。時にはありがたくないお言葉まで頂戴することに。腐敗はどんどんと進んでゆきます。真のリーダーなしに、人間の未来は明るくならないのです」
 三階につくころには、彼の興奮もだいぶ和らいできたようで、上目がちでこちらを窺っていた。彼は老けた顔の小男で、若くして髪が少し薄かった。唯一の美点は歯並びで、媚びて弧を描いた紫色の唇から唾液でぬるぬるしていそうな黄色い歯が見えた。
「わかったわかった。おまえが選挙に出たときは応援してやろう」
 引っ張って私を廊下の端にまで連れていった彼は、近くの窓を開けて中庭を見下ろした。
「あなたはどうして僕をそうやってはぐらかすんでしょう。応援してやろう? まるで僕が出馬するような言い方じゃありませんか。演説でもして下さるんですか。彼はとても実直なリーダー気質の男です? とんでもない! みなは壇上に立ったあなたに注目するでしょう。自信あふれる表情、さわやかな弁舌、発想の豊かさ、なによりその美貌。あなたの立ち振る舞いに全校生徒は真の精通を味わうことでしょう」
 彼はちらりとこちらを向いて、私の次の言葉を心待ちしていたようだが、先に予鈴が鳴ったので失望したように閉めた窓に広い額をこすりつけた。
「高校に入ってから、あなたは変わってしまいました。まるで並の人間のように、何の主張も働きかけもすることなく、ぼんやりと席に座っているだけです。わたしがあなたなら、こうしてはいられないのに。時間は刻々と過ぎているのに!」
 時間は刻々と過ぎているので、私は彼を置いて教室に入った。ほとんどの生徒が席についている。鞄を置いて一息ついたところで、ペンの尻が私の腕に触れた。
「朝だぜ」
「ああ、おはよう」
 只野はいつものように笑顔を浮かべながら「朝だぜ」といたずらっぽく繰り返した。
「昨日のテレビは観たかい?」
「カッパ拷問編」
「わっしゃー! おまえは観てると思っとったよ。あれは現代人へのからかいなんだな。しりこだまを奪われたから腑抜けになったんだと実在しないカッパの棲む川に除草剤を撒いてばたばたと倒れてゆく子どもたちの痩せ細った手首はつるつるとしている。つまり自傷をしなかったがために彼奴等は死んだんだ。くわばら、くわばら」
 折り紙を机の上に広げた只野の、人差し指だけを使ってぱたぱたと紙を折るその姿は、誰がどう見てもふつうの男子高校生といったなりで、鼻歌で桃色のポニーテールが弾み、緑色の眉がしきりに動き、目の下にはアイブラックを付けていて、唇には鮮明な赤のグロスが塗られていた。折り線をはっきりとつける彼の爪はたっぷりと伸びていて修正液で塗りつぶしたようなマット質の白いネイルがよく目立っていた。
「そうそう、思い出した。さっき、おまえの犬から手紙を預かってきたんよ」
 彼はブレザーの裾から取り出した長形2号のクラフト封筒を回転をかけて投げた。両手で挟むように受け取った私はびりびりと封を切って折りたためるだけ折りたたまれた普通紙を開いていった。たくさんの折り目のなかで、定規で引いたような鉛筆の線でこう書かれていた。
 ――ワン、ワンワンワン、ワン!
「犬っころはおまえのことが大好きだなあ」
 手紙をのぞきみた只野は、まるで何でもないことのように普通の、人並みの、平凡な形容をして折り紙あそびに戻っていった。

 中学三年生の冬、高校デビューをしようと決めた。ある日、天啓がやってきて、それはソファに寝転がってテレビを観ていたときだった。赤いベロアに頬をこすりつけ、はみ出た足と足を交差させて、右の靴下がかろうじて指先にとどまっていた。黒と白の、しましまだった。コマーシャルが終わり、ニュースが再開された。私はソファから転げ、正座をした。ぶら下がった子宮にキャンドルがそっと乗せられているような室内灯の光がかすんでみえた。私という人間、つまり神藤司は死ぬべきである。それも早急に、迅速に命を絶たなければならない。そして、生まれ変わるのだ。まったくべつの魂で、まったくべつの肉体を以て。少なくとも私の心は今、一度、死んだ。そして生きはじめた。新たな、善き人間となるために!
 まず、手にこぼしたミネラルウォーターで髪をぬらす。次に、被せた超長綿のタオルの上からぽんぽんと叩いて水気をとる。それから、毛髪乾燥機と猪毛のブラシで七三の分け目を作る。そして、用意したジェルとワックスを両手にとって見比べる。ジェルは……かたいやつだ。ワックスは……床に使うやつだ。熟考の末にジェルとワックスを脇に置いて、ジェルワックスを髪に馴染ませる。最後にべっ甲コームで整える。一歩、後ろに引いて鏡を見る。いかにも生真面目な、つまらない男がそこにいた。
 心も変わり、見た目まで変わった。今までそうであったように、私には不可能などなかった。只野という何の特徴もない気さくな男とも友人になったし、英語の予習をやらなかったことが看破されないかドキドキしながら授業を受けた。あとは部活にも委員会にも入らずひっそりと帰宅して、ときどき只野と高校生らしい放課後をエンジョイして、たとえば……二人で箱の中に入って写真を撮り印刷されたシールを手帳や携帯電話に貼るようなことをして、当たり障りのない成績で、何の衝突もなく文化祭や体育祭を乗り越え、卒業アルバムの白紙のページをきれいに保ちながら、おだやかな高校生活を終える、はずだった。

「ワン!」
 昼休み、只野と机を合わせて弁当を食べていたところに犬がやってきた。百七十二センチの痩躯は床にひざをついていても高く見え、こちらを覗きこむ顔もずいぶんと近かった。「撫でてほしいんじゃないの」と只野が平然とした様子で弁当につめこんだお好み焼きを食べながら言うので、しぶしぶと犬の頭に手を伸ばす。「よしよし」犬は目を細めて、舌を出しながら笑う。席を立とうとした私の肩を背後にはりついていた野之乃がぐっと押さえつけた。
「僕の弁当はおいしいですか?」
「おいしくない」
「ええっ、そんな。もう混ぜるのはやめましたよ!」
「何を混ぜていたんだ?」
 目をそらす野之乃の存在から目をそらして只野を見ると、彼は私の水筒でお茶を飲んでいた。
「おっ、飲みたいか。少しわけてやるよ」
「私のお茶だ」
「友達の友達は友達だろ? おまえの犬はおれの犬、おまえの信者はおれの信者、おまえの水筒はおれの水筒。一心同体、運命共同体というわけよ」
 私は彼から私のお茶を分けてもらい、ちびちびと飲みながら考えた――かつて為したことを心がなかったことにしても、すべては心の外側によって記憶されている。重ねた過ちは、いつまでも追いかけてくる。私たちの足を引っ張り、未来を狭めてくる。そうは知りつつも、生は過ちを避けようとしない。困難とは、いずれ後悔するとわかりながらもこの道程を正しいと信じ、歩みを止めないことである――くすぐったさとともに右足から上履きが落ちた。私が机の下を覗きこむと、犬が上履きを咥えていた。ワン、ワンワンワン、ワン! くぐもった鳴き声が床と机の狭いあいだで跳ねてしだいに勢いを増してゆくが、教室は生徒たちの声で満たされており、只野は鞄からマヨネーズを取り出し、野之乃は鼻歌まじりに私の肩を揉みはじめ、時は刻々と過ぎてゆくのだった。

 高校デビューにおいてもっとも重要なのは、地元の知人が通わないような学校に進学する学力および財力である。その点において、私に不足はなかった。あの忌まわしき知人たちは、みな札付きの不良で、教科書の裏に名前を書いてあるかもあやしい者たちだった。私がそのような人間たちを選んで交際したのだ。だから彼らにはまず考えられないような進学先を選び、だれにも言わずに受験した。中学三年生の冬、学級担任がプールで溺れた。運よく気付いた複数人の生徒によって救い出された時には、全身ぐっしょりと濡れていて、長いあいだ水の中でもがいていたかのように体力を消耗していた。彼はなにも言わなかったが、全身にあざがあり、手首にはひもでまきつけたような痕が残っていた。そして、合格発表の日。私の隣には野之乃と犬が立っていた。

 私の両脇に立っていた野之乃と犬は、一人でぐんぐんと階段を上る只野の背を見ながらひそひそと話した。
「いったいどこに向かうんです? 彼は信用なりません。だいたい何ですかあの見た目。歩く校則違反以前の問題じゃないですか。学校サイドがなぜあれを許しているのかわかりません」
「ワンワンワンワン!」
 教室から只野についてゆくこと五分。教室棟と隣接する管理棟にある図書室に来た私たちは閲覧室の奥にある書庫のさらに奥にある扉を開けて所狭しと本に囲まれた一部屋に落ち着いた。部屋の中央にはぽつんと長机と七脚の椅子が置いてあり、野之乃、犬、私、只野の順で扉から見て左手前の席に腰をかけていった。窓はなく、室内灯は黄ばんでいた。古くさいような、カスタードクリームのようなにおいがし、本棚に並んでいる背表紙は傷だらけでカバーすら掛けられていなかった。
「いったい何がはじまるんだ?」
「へんぴな部屋を見つけたから招いただけで特に何もねえよ」
 相似するだろう。この瞬間を拡大すれば、私の一週間や一ヶ月と同じ形になって完全に重なるだろう。現に図書室はプラネタリウムになっている。読むことのない本の背表紙、名前を知ることのない星の輝き、それらが並んで川になっている。私たちは椅子の背もたれにあわせてとろけながら、ぼんやりと仰いでいる。その場の空気に浸っているだけで、何も学習しなかった。これは一生分の気持ちだろう。図書室からとぼとぼと四人で歩いているとき、そう思った。

 妹の誕生日が明日に迫った日曜日。私は入学祝いに親戚からもらったキングベッドを尻で弾ませながらタブレットでラッピングのやり方を調べていた。プレゼントのイラストによくあるようなリボンの十字がけをやりたい。すでにサンタ柄の包装紙と金色のリボンは用意していた。動画サイトでリボンの結び方を一通り見たのち、私はタブレットを枕より向こうに投げ出して天井を見た。リボンといえば、全裸リボンは現実に可能なのだろうか。私は体をひっくりかえして、タブレットを操作した。
 二十分後、やってきた犬は私の部屋の中央で所在なく正座をして「ワン」と一回だけ鳴いた。
「上を脱いでくれ」
 犬は上を脱いで、さらに下まで脱いだ。彼は服を綺麗に畳んだのち、頭を低くしてベッドに腰をかけている私を見上げた。
「直立して、そのまま動くな」
 私の言葉に従った犬は静かに目を閉じた。練習用に百円均一で購入していた赤いリボンの包装を破って、まずは犬の首の後ろにリボンを通す。彼は一瞬だけつま先立ちをしたが、私に足を踏まれたのでやめた。そのまま右脇の下にリボンを通そうとして、彼の生い茂る汗ばんだ毛に躊躇したのち右手首に巻き付ける。首の左側に残っているリボンの先端を彼の左の太ももにぐるぐると貼り付けて、余った部分で左の親指を拘束した。できあがった裸リボンを眺める。何も隠せていない。こんな汚いプレゼントを貰おうものなら息子は萎えてしまうだろう。
「ワン、ワンワンワン」
 どっと疲れてベッドに腰を掛けた私に、犬はあごで床に置いていた箱をさした。拾ってその中身を見せると、彼は右に首をかしげて、拍子に左の親指からリボンがぴょろんと解き放たれた。
「妹の誕生日プレゼント、図書カード五千円分だ」

 気づいたことがあると隣の只野に打ち明けると、彼も「そうそう。おれも気づいていたんよ」と私の茶を飲み干した。まだ二時間目の始まる前の休み時間で、三時間目には体育の授業が控えていた。
「もう四月の三週目。こんなに陽気なキャラなのに友だちがおまえしかいない」
「吹奏楽部のほうの猫屋敷と話していただろう」
「移動教室のとき消しゴムを落としたんで拾ってやったんよ。カバーがアニメっぽい画だったから『ふうん、猫屋敷って小さい女の子が好きなんやね』言うたら、周りの女子がくすくすと笑って、猫屋敷は目も合わせてくれんくなったよ」
「田沼とは?」
「ロッカーの置き勉を取りにいったときにぴこぴこメールを見ている田沼がおったから『ロッカーなんで電気つかんのやろうね。曇りの日にゃ真っ暗なるしバックライトに照らされている田沼の顔もグロゾンビみたいで怖いね』言うたら、周りの女子がくすくすと笑って、田沼は消しゴムも拾ってくれんくなったよ」
 只野は「つまり、周りの女子がいるからおれは友達ができないんよ」と折り紙の鶴を離席中の真田の椅子にいくつも投げ捨てた。そのいくつかは床に頭から落ちて、猫のように着地した。
「おまえの気づいたことは?」
「小学生、中学生、高校生ときて移動教室の回数が増えている」
「なるほど、おまえは……天才だな」

 妹の誕生日パーティに招かれた只野と招かれてもないのにやってきた野之乃と犬は会場を見渡して「ワーーーン」と同じことを叫んだ。
「天井が高い!」
「ただの吹き抜けだ」
「料理は誰が作ったんです? 唐揚げ、ポテトフライ、ハンバーグ、ピザ、ローストチキン、ローストビーフ……茶色しかないですよ」
「妹の奴隷にコック志望がいて、彼らが作った」
「その割に男は僕たちしかいませんね」
「パーティに奴隷がいたら目障りだろう」
 犬といえばテーブルの中央に置かれていた葡萄に手を伸ばして、妹に頭を叩かれていた。彼女は犬の首根っこをつかみながらこちらに早足で近づいてきた。
「ちょっと、なんで制服なの。正装してきなさいよ、させなさいよ」
「女子中学生の誕生日パーティごときにどうして服を着替える必要がある。だいたいどうしたんだ、その破廉恥なワンピースは。女友達どもを丸出しの肩で誘って二次会で何をする気だ」
 妹はつんとそっぽを向いて、そのくせ露出した肩で私の胸板をどしどし叩いた。
「もう、お兄ちゃんの理屈屋! 私に変人のお兄ちゃんがいるなんて知れたら、いじめられちゃうかもしれないでしょ」
「おまえをいじめるやつにはきっと失うものがないんだろうな」
 当たり前でしょ、と妹は鼻を鳴らしたあとで「あなたは初めてですね、どちらさまですか」と只野の頭を凝視した。
「おれは兄貴と同じクラスの只野だよ。ただの只野ただの」
「まことしやか! まあいいでしょう、たくさん食べていってくださいな。女子は殿方の前では食べませんから」
 私たちに背を向けてほかの来客と話し始めた妹を見ながら只野は「おまえの妹、なんで女みたいなしゃべり方してんの?」とテーブルで一番存在感のあったチキンを食いちぎった。ぱりっとした皮から肉汁とガーリックの混ざった匂いがした。香ばしさにつられて私、野之乃、犬もチキンに手を伸ばす。四人で並んでチキンを食べていると、発光したエレクトロニックフラッシュに目がくらんだ。
「イイ顔ですねえ、はい、ピース、ピース!」
 カメラを持った女の言葉に従うように、私たちはチキンにかじりつきながら開いた手でピースをした。只野に至っては歯だけでチキンを支え、両手でピースをした。写真をもう一枚撮ったところで、カメラを持った女が私たちの前までやってきた。妹より少し高く、野之乃より少し低い背の女は控え目な青の長袖のワンピースをまとっていた。彼女はポテトを二、三つまんで「妹さんと同じ部活の秋山です」と説明した。
「ふうん、妹ちゃんが何の部活をやっているか知らないから何の情報にもならないや」
「ダンス部です。去年は大会にも出場したんですよ」
「その写真はそこにあるのかい?」
「まさか。踊っているときは踊っていることに夢中で写真に残す暇はありません」
 これこそ真理なり、と只野は叫んでチキンの骨を唐揚げの山に戻した。
 肉料理を平らげたところで皿が片付けられ、ケーキがやってきた。冷蔵庫に入ったか怪しい巨大なケーキにはろうそくが十四本も並んでいた。だれかがカーテンを閉めて電気を消すと、部屋はしんとして真っ暗になる。ふたたび照明がついて、ろうそくに火をともしてから再び電気のスイッチを切る。十四の光が強く揺らめいているなかで、只野は「はぴばーすでー」と低い小声で歌い、犬は「わーんわーん」と小声で続け、野之乃は「一気に吹き消すと願いごとが叶うと聞きますが、あなたは何を願いますか?」と小声で尋ね、私は「他人のケーキで願掛けするな」と小声で答えた。
 

 示し合わせたように出会う野之乃といつもどおり登校していると校門で生徒がせき止められていた。野次馬にも檻に近づいて怒号を上げる囚人にも見える彼らをかき分けてみると、只野と生徒会長が対峙していた。両者は一歩も引かずににらみ合っており、どちらも両手を腰に当ててふんぞり返っていた。反り具合が勝敗を決めるのなら只野が勝っていた。
「君のその髪は地毛かね」
「地毛ですとも。子猫の首をかけてもいい」
 群衆はどよめいた。子猫が死んでしまう。
 生徒会長は激しい咳払いをして、少し目を涙で濡らしながら「君の両親はピンク色の頭をしているのかね」と愁傷に続けた。
「まさか、まさかとは思いますが生徒会長殿。禿は両親が禿ているから禿げたとお思いで? そんな禿な。ああ、間違えた。そんなバカな。父と母が禿げていなくても禿げる禿はいるのです。人間には逃れられぬ宿命というものがある。禿にとってはそれが禿だったというだけ」
 今やってきたらしい生徒は只野の言葉を聞いて「生徒会長は禿をいじめていたのか」と眉間にしわをよせた。野之乃は振り返って「そうです、あの生徒会長は禿の敵なんです」と叫び、民は「禿の敵! 禿の敵!」と片手をあげて生徒会長をののしり始めた。
「話をすりかえないでくれよ。地毛がピンクなんて、まじめな顔で言ってはずかしくないのか! だいたいその眉はなんだ。どうして地毛がピンクなのに眉がグリーンなんだ?」
「あらまあ、生徒会長。話になりませんよ。きれいな明るい金髪のお姉さんでも陰毛が茶色いことはあるじゃあないですか。男子高校生なのに女体に興味がないので?」
 今やってきたらしい生徒は只野の言葉を聞いて「生徒会長は同性愛者だったのか」と歓喜の声を上げた。野之乃は振り返って「そうです、あの生徒会長は男が好きなんです」と叫び、民は「男好き! 男好き!」と両手をあげて生徒会長を応援し始めた。
「か、仮に色が違うだけだとしてもだね。なら地毛を証明できるのかね」
「写真ならありますよ。馬のおもちゃを父親の尻に入れようとしているときの写真が」
 制服のポケットから取り出した生徒手帳から取り出した写真を生徒会長に渡した只野は「どのような人間にも歴史がある!」と豪語して再び腰に両手をあてた。
「なるほど、確かに写真はある。馬のおもちゃを父君の尻に入れようとしているときの写真はある。だけれど、当時の君は髪が黒いようだぞ」
 子猫の首が! 手に汗を握る展開の中で、只野は不敵に笑って白目までむいて見せた。
「染めたんです」
「ようやく告白する気になったんだね?」
「黒に染めたんです、当時のボクが」
 しんとするなかで、どこからか鳥の鳴く声が聞こえた。そのうち隣の野之乃が「コペルニクス的転回だ!」と言った。衝撃の波は校門で立ち往生している数十人の生徒たちに広まり「コペルニクス的転回だ!」のフレーズが端から端まで唱えられた。野之乃は満足げに「人生で一度でいいから言ってみたかったんです」と囁いた。きっとほかの生徒も、私もそうだった。人生はいつ終わるからわからないから、今、言えることは今、言わないといけない。「コペルニクス的転回だ!」
「みんな黙って! 黒に染めた? なんて愚かな!」
「そう、愚かなことでありましたよ。父と母は桃色の髪をもったボクを見て、葛藤したんでありやんす。『正義の味方に討伐されてしまうかもしれない』『生徒会長的な人間に虐げられてしまうかもしれない』そうしてボクはふつうの子どもにされてしまうところでした。しかし、ボクは立ち上がって父の尻に馬を入れようとした。『待ってくれ、父、お母さん! ボクは生まれ持った自分で生きていたいよ。たとえ桃色の髪が生徒会長的な存在の迫害要件だったとしても、そもそも、どうして自分らしく生きるのにだれかの承認が必要なのだろうか? 必要なのだとして、その委員会はだれが決めるのだろうか? ボクたちは特別な人間の部屋に飾られるお人形なのだろうか? 彼らが黒髪に勃起する変態のためにこの美しい桃色の髪を墨汁にひたさないといけないのだろうか? いいや、違う。ボクたちは率直に正直に真剣に生きるべきだ。人の目を気にして髪を染めるような真似をしてはいけない。それは真実を嘘で裏切ることだ』そういうわけで、生徒会長。ボクは桃色から黒色に染めたが、成長にしたがって桃色で生きることにしたんよ」
 只野の言葉にみなはもはや何を言うまでもなく、かみしめるように立っていた。生徒会長は首をひねったあとで「素直に正直に真剣に生きた結果がそれか?」と只野の修正液を塗りたくったような白い爪を見ながら言った。
「どんなに修辞を凝らしてもピンク色の地毛なんてない! 染めなおしてきなさい!」
「だったら生徒会長、あんたは黒でいいんかよ?」
 今やってきたらしい生徒は「なになに、何が起こってんの」と周囲に聞きはじめた。野之乃は振り返って「今、生徒会長の隠されし悪が暴かれようとしているんですよ!」と叫び、我々は「快調、会長、ご開帳!」と声を合わせ始めた。
「いや、黒でいいよ。地毛からして黒だし」
「なら証拠を見せてください。ボクに求めたみたいに、早く!」
 制服のポケットから取り出した生徒手帳から取り出した写真を只野に渡した生徒会長は「なんでこんな目に……」と哀れっぽく言って再び腰に両手をあてた。
「ふんふん、美人の姉とかわいい妹に囲まれた写真ね。姉と妹で一万五千円かな」
「なんの価格だ」
「なるほど、確かに当時の会長は飛ぶゴキブリの羽と見まがう黒髪らしい。しかし、これが何の証拠になる?」
「なんだって?」
 聞き返した生徒会長に、只野はいよいよ腰に当てていた手をあげて指をつきつけた。
「本当の本当に地毛が黒色であることを証明する証拠はなし! その写真も桃色から黒色に染めなおした後に撮ったものかもしれん! そう、本当に髪を染めていたのはおまえさんだったんだよ、生徒会長様」
 衝撃的な事実に歓声を上げる人々のなかで野之乃は「ここでコペ転を使うべきでしたね」と肩を落とした。人生はいつまで続くかわからないから、今、言ったことで、明日、後悔することもある。「パラダイムシフトの出番だな」
「そんな馬鹿な! どこに証拠が!」
「証拠を求めるがゆえに、証拠がないことに困るのさ!」
 うろたえる生徒会長が我々に助けを求めるが、もう遅い。「おまえのような偽善者はいちばんふっかい地獄に堕とされるんぞぉ」「めもめも、生徒会長はじつは桃色髪だった」「じつは頭がドピンクのくせに黒髪清楚を気取っている生徒会長ってよくね?」「だいたいテメーが論破したら子猫が死ぬんだぞ。あきらめて死ね!」「さあ、僕たちはさっさと登校して新生徒会執行部について考えましょうか」あまりにも遅すぎたので、チャイムが鳴った。

 クラスメイトの下敷きをすべてチェックした只野は「おまえの下敷きは三位だな」の言葉を残してぐっすりと眠ってしまった。私は数学のノートから下敷きを引き抜いて、まじまじと見つめた。十三歳の誕生日のときに妹がプレゼントしてくれたその下敷きの中央には、サッカーボールが描かれている。地はサッカーボールの白と黒がよく映える赤色で、少し、ラメ……あの、ちょっと豪華なシールの、つるつるピカピカしたもの、になっている。表面は傷だらけで、室内照明の光にさらすと斜めにも横にも走る細かな線がよく見える。裏には二頭身のサッカー選手が描かれている。脇にサッカーボールを抱えて、表情は自信ありげに見える。こちらの背景は青色で、どちらが裏か表かわからない。どうして下敷きに両面印刷をするのか。サッカーボールか、サッカーボールを抱えた野球選手か、筆圧の犠牲になる面を選べというのか。
 私と只野のあいだで立ち止まった教師は大きな声で問題文を読み始めた。反抗するように只野は大きないびきをかきはじめ、さらに反抗するように教師は声を大きくさせ、さらにさらに反抗するように只野はびくんと震えて机をがたっと揺らし、さらにさらにさらに反抗するように教師はいちど読んだ問題文を繰り返し、さらにさらにさらにさらに反抗するように只野は目をこすりながら床に転がってすやすやと眠り始めた。戦いを終わらせるにはいちばんの勇気がいる。只野がクラスで一位だと主張する彼の下敷きではムチムチとした身体のアイドルが駅前でM字開脚をしてダブルピースをしていた。だれがこの勇気を踏みにじることができよう? 数学教師は只野を踏みつけ、彼の母親の入電によりその日から姿を現さなくなった。

 移動教室の帰り道、出会った野之乃は一緒に歩いていた生徒にビンタをしたと思うと秒で私の目前に立っていた。あまりにも早すぎて移動がよく見えなかった。彼は私をさらに驚かせようと、英和辞書を開いた。辞書の中身は正方形にえぐりだされており、空白には折りたたまれた紙が入っていた。取り出して開いてみると、生徒の顔写真と名前、役職がグリッドに入れられたように美しく整列していた。紙の上部中央には「生徒会役員候補」とある。その中には私、野之乃、只野の名前もあったが、犬の顔写真の下には「犬」としか書かれていなかった。
「なんだこれは」
「昨日、生徒会長がみなを足止めして遅刻させた罪で生徒会室にお呼ばれしたでしょう。これは千載一遇のチャンスですよ。不信任ということで彼を無職にしてこの社会から追放しましょう」
 ちらりと紙面に目を滑らせる。
 
 神藤司:生徒会長 
 只野ただの:副会長兼風紀委員長
 野之乃:書記
 犬:犬

「すこし問題があるな」
「えっ、どこでしょうか。我ながら完璧すぎて生徒たちが絶頂するのではないかと危惧していたんですが、いったいどこに些細で小さな問題が?」
「まず一年生のメンバーが多すぎる。生徒会長や副会長はせめて二年生でないと」
 なるほど、と野之乃は長くうなずいたのち、私から紙をひったくって壁を下敷きに鉛筆で何かを書き足し始めた。それから一仕事を終えたような表情で紙をふたたび差し出した。

 旧生徒会長:名ばかりの生徒会長
 旧副生徒会長:名ばかりの生徒副会長
 神藤司:真の生徒会長 
 只野ただの:真の副会長兼風紀委員長
 野之乃:書記
 犬:犬

「あと生徒会執行部に犬はいらないだろう。犬は」
 やれやれと肩をすくめた野之乃はふたたび何かを書き足して私に投げつけた。

 旧生徒会長:名ばかりの生徒会長
 旧副生徒会長:名ばかりの生徒会長
 神藤司:真の生徒会長 
 只野ただの:真の副会長兼風紀委員長
 野之乃:書記
 犬:庶務犬

「新種を作るな」
「あっ、会計は一応二年生です。たいへん意欲のある男で、野球部のエースをしていたので人望もあります。成績も優秀で教師ウケも間違いありません」
「彼が会長をやればいいだろう」
「まさか! 過去形に注目してください。彼はもう野球部のエースではないんです」
 紙に貼られた顔写真を見る。確かに青りんごの匂いがしそうな清潔感のある顔立ちで生徒会役員にぴったりの顔をしている。
「投げすぎて壊れたのか?」
「いえ、壊れたから投げすぎてですね。相手が重症になってしまったので現在は謹慎中です」
 人は見かけによらない。
 野之乃に誘われた私は、いぬの間にかついてきたいつ、いや、いつの間にかついてきた犬を連れて謹慎中の男に逢いに行った。住宅街の奥地、少し古びた一軒家にある庭の犬小屋に犬が侵入しようとするのを脇目にチャイムを連打する。が、誰も出てこない。野之乃は「遊びに出かけているかもしれないですね」と言って扉を背にするように玄関の前に座ったが同時に扉が開いて横に吹き飛ばされた。
「あのさあ、二十三回も連続でチャイムを鳴らす前にあきらめようとか考えないの?」
「二十三回のチャイムを数える前に出ようとは思わないのか?」
 彼は私をつま先から七三分けまでじっと見たあと「なんだ、この画に描いたような真面目くんは」と言って、転がっている顔見知りらしい野之乃に目をやった。
「彼は人類のプリンスです。もっとも有名な例だと神の息子に近似していますね」
「誰だアンタは」
 顔見知りですらなかったのか。
 何かを見つけたらしい犬が口に咥えて二本足で走ってきた。彼はうるうると見上げて、口につかんでいたものを私に押し付けてきた。硬くて、少し黄ばんだ白のような灰色のような骨。まだこちらを見ている犬の頭を撫でていると、会計候補の二年生は「こいつは!」と目を見開いた。
「俺の中学でも有名になっていた。各地の中学の窓ガラスを割りまくって教師の車をボコボコにしていたが、親が宗教系の議員だから様々な悪行がもみ消されていたという、あの伝説の悪魔!」
「単なる親の七光じゃないですか。ピカッ」
 犬が倒れている野之乃の腕にかみつくと、二年生はいよいよ面白がって「こんな凶暴なやつを犬にしているなんて、いったいどういう趣味をしているんだ?」と羨望のまなざしを私に向けた。

 そばに犬がいると咳きこんでしまう大の犬好き、犬の大好きな妹は十二歳の誕生日にアレルギーのでない犬がほしいと甘えはじめた。私は犬について調べ、毛の短い犬であれば妹の身体にも影響がでないかと考えたが、さんぽやしつけのページを見ているとだんだんと不安になってきた。なぜ犬のうんこを処理しなければならないのだろう。汚物に触らなければならない職業を思い出せ。「私はトイレ掃除をします」「私は障碍者のうんこを片付けます」「私はうんこを食う女優です」差別はよくないと言う人間においても、己の目指している職業にうんこの処理が職務として加われば、ご綺麗な信念を曲げて違う夢を語るだろう。なのに犬や猫、うさぎのうんこを処理することは当たり前のように受け入れられている。
 犬の世話、全般もそうだ。家事手伝いを雇い、最新の電化製品を購入し、床掃除をロボットに任せている人間がどうして犬や猫、うさぎや亀の世話をしなければならないのか。一つ、思い当たることがある。それは人間の子どもが大人に保護されて生きる理由と同じだ。己の無為な時間を有意義にするために命を引き取ったことへの罪悪感に贖ったのである。私たち兄妹にはそのような憐憫を持つことができないので、ペットの世話はできないだろう。面倒をみてもらえなかったペットは、干からびて死ぬだろう。
 つまり、放っておいても生き永らえる犬であれば、飼うことができる。ひとりでうんこをし、水に流し、勝手にごはんを食べて、気ままに散歩する犬であれば、ペットにできる。
 コピー用紙に数字をそれぞれ書いて、ハサミで切っていく。次に用意したのは三つのビニール袋。半透明で、中身は透かそうとしないと見えない。私は学年の袋、クラスの袋、出席番号の袋とわけて、各々に対応した紙を投入した。くじだ。私はくじを一回ずつ引いて、床に並べた。
 私と犬のいる中学は学区でも一番に荒れていると評判で、一階にある窓ガラスのほとんどは気づくといつも割れていた。二年生の教室がある二階の廊下に至っては照明まで割れており、男子トイレは喫煙による火事があったとの理由で閉鎖されていた。
 その中学で頂点に立つ犬はまれに学校に来たかと思うと窓ガラスを割ったり生徒に暴力を奮ったりするので、何か事件があったときは彼が来た証だとされていた。それほど神出鬼没な犬のひとりを狙って後頭部を殴りつけることは言葉以上に困難なものであり、彼を家の地下室に転がすまでには骨が一本折れたのではないかとさえ思った。息が落ち着くのを待って、私は犬が自殺しないように布を食ませてタオルで覆い、手と足をしばった。それでもまだ起きないため、私は地下室に備え付けてあった机から椅子だけ引っ張り出して犬の腹を思いきり殴りつけた。
 いくら不良といえど、議員の息子となれば捜索願を出される可能性もある。であるから、早期に決着しなければならない。人間が、特に不良が「犬になってください」と言われて簡単に「わん」と答えるわけがない。なぜなら彼らには自尊心がある。相手に撫でてもらうために腹を見せられるのは犬が恥知らずだからだ。だから人間を犬にするには、彼らの持っているプライドをへし折って廃人にすればよい。
 地下室には電気が通っていたが、照明はつけなかった。手持ちのランプをもって、私のそばに置く。机の引き出しにはアナログ時計と消しゴム、ライター、消毒薬、包帯、果物ナイフが入っていた。それ以外のものは倉庫に押し込んだので何もない。人を閉じ込めるためだけの部屋だ。
 うめく犬の足を私の膝の上において、ライターの火をかざしたが、意外と人間の爪は燃えづらく、しかも臭かった。彼はじたばたと暴れていたが、やがてぐったりとしていた。脂のような汗をかいており、顔面は蒼白になっていた。ライターを床に投げて彼の足に治療を施した私は、犬が口をもぐもぐとしていることに気づいて布とタオルを取ってやった。
「そんなことをしても、俺の親は来ねえぞ」
 身代金を要求するために誘拐したと思われたらしい私は「葬儀にも来てくれないのか?」と尋ねたが、彼は「来ない」とはっきりと言い切ったあとでぶるぶると震えはじめた。
「かわいそうに、どんな親不孝な息子でも葬儀には来て、若くして原形もとどめずに死んだ亡骸を見て泣くだろうに。おまえは今まで一度も愛されることなく、だれにも知られることなく暗闇の中で息絶えるんだな」
 犬にはおびえの表情があったが、彼が刃物を突き付けて強姦したとされる女子生徒たちも似たような顔をしていたに違いなかった。私はやさしい気持ちになって、椅子で殴ったばかりの腹を撫でてやった。
「今までの悪食で弱ったおなかに朗報だ。おまえはもう、何も消化する必要はない。水すら与えられないのだから。やがて喉がからからに乾き、ひどい頭痛がし、幻覚が見え、次第に何も見えなくなって死んでしまうかもしれないが、心配はない。最終日、には腹が破裂するぐらい食べさせてやろう」
 実際には三日で開放する予定だった為、よほど衰弱しないかぎり死ぬことはなかった。しかし犬は延々にこれが続くと考えたのか、さっそく舌を噛もうとしたので、鼻頭をグーで殴って悶えているうちに猿轡をしてやった。
 一日中、暗闇のなかにいると人は狂うと聞くが、犬は狂わなかった。彼は鼻水と小便を垂れ流しながら私をにらみつけた。取り出したタオルと布はよだれで濡れてずっしりと重かった。
「自殺しないと誓うなら人と話す権利をやろう」
 彼はこくこくと頷いた。
「監禁された人間はどうして殺されると思う?」
 犬はふるふると首を横に振った。
「おまえには心当たりがあるはずだ。ある男を半殺しにしたとき、おまえはなぜ半殺しにしなければならなかった? 用件は少し痛めつけるだけで済んだはずじゃないか? 正解は、復讐を恐れているからだ。ひどいことをした分だけ、もう取り返しがつかないと考える。すぐそばで、命を狙われているのではないかと不安になる。だから犯罪はエスカレートする。復讐する気なんて起こさせないように、無力になるように、殴って殴って殴って殴る。その結果、死ぬ。そこまでするつもりなんて、どこにもなかったはずなのに、だ」
 ゆるしてください、かぼそい声で犬は泣きはじめた。
「ずっといい子にします、ゆるしてください」
「おまえは父親にもそういったが、不良になったんだろう? 私に同じ手は通用しない」
 いよいよ本格的に泣き始めた犬の顔を見ていると、意外と顔が整っていることに気づいた。妹の好きなタイプだ。もしも彼を犬として連れてきたときに、妹が発情して犬と交尾してしまったらどうすればよいか。私は唾液タオルで犬の顔をぬぐってやって、慰めてやるか自殺を教唆するか一考したのち、口を開いた。
「この世には自殺するべき人間がいる」
 犬は泣きはらした顔で私を見上げた。世には「絶望した顔」という表現があるが、他人がいつ絶望しているかなんて心が見えないのでわからないし、私が絶望したときの表情を鏡で確認したとしても、他人も同じように表情筋を動かすとは限らないので、私の主観においてその表情が何なのかはわからない。絶望に限らず、何のことでも言える。
「これは次の例に照らし合わせて考えるといい。掃除をするべき人間がいる。掃除をするべき人間が掃除をしなかった場合、掃除をしてはいけない人間が掃除をしたことになる。たいへんな理不尽だ。しかし、結局はだれかが掃除しているから、総和は変わらない。部屋はきちんと掃除されている。だから誰もふだんは気にしないし、自分や周りの人間が関わっていないかぎり声を上げることもない。たいへんな不条理だ。私は、すべての機会がすべての人に公平であってほしいと思うと同時に、死んではいけない人間に死んでもらいたくないと思う。そして、おまえは、そういう人間だ」
 犬の監禁は公正に三日間、軽い肉体損傷を含めた拷問とあわせてみっちりと行われ、彼は監禁を始めてきっかり七十二時間後に開放された。
 光の中に出ると、そういう人間はそういう犬になった。いったい何の論理展開があったかは知らないが、友だちと喧嘩をしてふてくされている妹が膝枕で撫でられているうちに「謝りたい」と涙を流して眠りにつきよだれを垂らした思い出に似ている気がする。
 その妹に「やだ、気持ち悪い!」と言われて追い出された犬は、いつのまにか野之乃と二年会計を倒していたらしく、うつ伏せになっている二人をわざわざ踏みつけながら私の足元に跪いた。
「ワン!」
 私は少し屈んで犬を両肩を抱いて「よくやった」と言った。犬ははあはあと笑って、私の頬をぺろぺろとし始めた。ははは、こいつめ。また地下室送りにされたいのか。

 私の家と学校のあいだには数々の横断歩道が横たわっている。信号を待っていると、重たそうな荷物を抱えた老婆が信号を無視してゆっくりと渡ろうしていた。ふつうの人間はおそらく次のように悩むだろう。ルールを破った老婆は車にひかれて内蔵をぶちまけながら死ぬべきだ。しかし、ルールを破ったからといって車にひかれて内蔵をぶちまけながら死んでほしいと願うのもルールに反しているのでは? 見知った背が老婆に近づいてきて、彼女の荷物をもってやった。「さあ、いきましょう」彼は老婆と世間話をしながらのろのろと歩き、渡り切るころには信号が青になっていた。追いかけるまでもなく自然なペースで信号を渡ると、野之乃は「お待ちしておりました」と頭を下げた。
「何を待たれたんだ私は」
「いろいろと調整したんですよ、老婆の荷物をもって歩くことで」
「赤信号だった」
 彼は足を止めて私を見たが、私には彼のペースに調整する義務がないのでそのまま歩き続けた。ばたばたと追いかける足音が続く。
「あなたは、本当に変わってしまいました」
「昔から信号は守っていた。信号だけは守る男くんとまで呼ばれていた」
「そういう冗談も言わない人だったんですよ」
「エピソードをあげろ」
 ようやく追いついた彼は「そうですね」とふだんから持っていたものをひけらかすかのように指折り数え始めた。
「僕の家に飾られている花を見て、あなたはリビングのソファに寝転がりながら言ったんです。『この花はもっと上等な使い道をされて散るかもしれなかったのに、今からおまえに食べられて死ぬんだ』僕はその予告の通り、花を食べさせられたんですよ。あなたが帰った後にひどく腹を壊しました」
「はあ」
「貧乏な親がなんとか金を払ってくれた修学旅行にも行かせてくれないで、あなたがしてくださったことを覚えていますか? 僕は汚い池に突き落とされたんです。あのあと学校を休んだのは、悲しかったからではなく肺炎になったからです」
「おまえは私を恨んでいるから、私の高校デビューを邪魔するのか?」
 彼はとんでもないと首を横にふったが、あまりにも真剣に否定するあまり電柱に勢いよくぶつかった。そのまま倒れて動かなかったが、救急車だけ呼んで私はそのまま学校に向かった。

 教室に入ると、只野の机にメロンパンが山積みになっていた。私は包みを開けようとしている只野に挨拶をして椅子に座ろうとしたが、そこにもメロンパンが置いてあった。持ち上げたメロンパンを膝の上に避難させると「股間をメロンパンで隠すなよ」と只野が言ったので、そのままやつの顔にぶつけてやった。
「メロンパンは戦争をするためのものではなあい」
「教室に持ってきて積むものか?」
「さすがのおれもメロンパンを机に積まねえよ」
 そういいながら只野は袋から取り出したメロンパンをぱくぱくと食べはじめ、ぼろぼろとかすを落とはじめた。さくさく、とはいかず、ふわふわと柔らかいらしいパンは無駄に立てられた歯でふわ、ふわふわとゆっくりと絶命させられるように噛み切られて、只野の口に吸い込まれてゆく。
「茶くれぃ、茶。すげえ、パさつく。これ、刺客の罠だ」
 水筒を渡すと、只野はごきゅごきゅと飲み始めた。私の机に勢いよく戻されたときには、水のたぷっと波打つ音は聞こえなかった。
「心当たりはないのか」
「そりゃたくさんあるけども、どんなメッセージがあってメロンパンを寄越したのかは想像もつかねえよ」
 ごくふつうの、ありふれた意見を言った只野は「メロンパンのメロンを『す』、パンを『き』に置換すると『すき』になるから、たぶん犯人はおれのことが好きなんだ。はらっぱはらっぱ」と腹をぽんぽこと叩いた。

 気分転換に中庭にでた私たちは、前から見て左に只野、私、犬とつめて二人用のベンチに腰を掛けた。三人の膝に余るメロンパンを肩や頭にまで乗せてメロンパンを食べていたところで、食堂帰りらしい二年会計候補が片手をあげてベンチに近づいてきた。彼は指でつまんだソーセージパンをぷらぷらと揺らしながら「交換してほしい」とはにかんだ。
「に、二年生だ! どうしよう、おれ、年上は苦手なんだよ。よく年上のかわいい女の子に逆レイプされたせいで、フロイト的なものがむくむくするんだ」
「知り合いだから心配ない。交換してやれ」
 メロンパンを渡された二年会計候補は「俺も混ぜてくれ」と犬と私のあいだに混ざろうとしたが、犬が彼の首にかみついたのであえなく地面で食べることになった。よじのぼろうとする蟻を払いながらメロンパンを食んでいた先輩は「あの不細工は?」と聞いた。
「ああ、そういや朝から見ないな。移動教室のとき、いっつもおまえをストーキングしているのによ」
「ワン、ワンワン」
「まあ正直、あの顔を見ながらごはんを食べると吐き気がするしな。いてもいなくても困らんよ」
「確かに」
「ははは」
「わはっんわはんわん」
「今の笑い方は無理があるだろ」
 ベンチには木漏れ日がさしていた。私は濃い影に開いた光の穴をくるぶしに浴びせながら、ひどく眠たくなってきた。それも、疲労によりくたくたになって気絶したように意識を失う数秒前の眠気さではなく、朝、ほんの少しだけ早起きをして、時間があるからとうとうとしているときの眠気さに似ていた。そろそろ目覚めて行動しなければならないのに、抗いたくなくなる誘惑。この幸福をうすくうすく引き伸ばして、終わりまで続かせられたのなら、あらゆる困難はあっけなく霧散し、人生は美しいと素直に言えるのになと思った。

 起きたときには、少し空が暗くなっていた。私のすぐそばには四人の寝息があり、目の前には野之乃の顔があった。人生はこうして醜くなる。ひどい彼のひどい鼻にはひどい痣があったが、折れていないらしかった。
「どうしてこんな時間まで寝ていたんです?」
「あやしげなメロンパンに睡眠薬でも盛られたんだろう」
「なぜ、そうだとわかっていてそのメロンパンを食べたんですか」
 私は答えなかった。
 野之乃は犯人について目星はついているのかと聞いた。「生徒会長だ」彼は特に動揺せずに頷いた。「これはれっきとした犯罪です。生徒会長は生徒会長の資格を失うどころか、高校生ですらなくなるでしょう」私は彼の言葉にあいまいに頷いてみせた。
「証拠を見つけて生徒会長を社会的に殺しましょう!」
 おまえには想像力がない、と私は告げた。彼は私に顔を近づけて「見えるものは想像する必要がないと言ったのはあなたですよ」と言った。三人はまだ眠っており、二年会計候補は野之乃に手を踏まれてもぴくりとも動かなかった。
「私たちが生徒会長を訴えてみろ。注目が集まる」
「良いチャンスじゃありませんか。炎上商法をご存知ですか。社会的悪な行為によって注目を集めることで、知名度を得る方法です。人間は悪行をすぐに忘れてしまいますし、調べることを厭います。悪名は無名に勝るのです」
「燃え盛っているうちに死んだらおしまいだろう?」
「あなたが死ぬはずがない」
「私は死なないが、青春は死ぬ」

 カーテンを自分の気分に合わせて好きな色に変える。悲しいときはブルーに、うれしいときはホワイトに、性欲の奮い立つときはレッドに。私の家にはそれだけの財力があった。何かをしたいと思い立ったときに始めて、やめたいと思ったときにやめられる環境のなかにいた。頼めば好きな場所で寝転ぶことができるし、場所がなければ、空き部屋を好きに飾ることができた。たとえば貝殻の部屋。床と壁を妹と二人で青に塗った。その部屋に貝殻は存在しない。そのかわり、魚のぬいぐるみが転がっている。部屋の中央には丸いベッドがそこにある。清潔な白のシーツの上には魚一匹すら見当たらない。
 私が環境に適応するのではなく、環境を私に適応させる。中学一年生のときに傘を折られて昇降口から出られない野之乃に掛けたアドバイスはここから発展したものだった。
「外来魚を持ち込んではいけない。しかしどうしても外来魚を持ち込みたい場合は、持ち込んでよいものとする」
「は、はあ。どうしていいんですか」
 私は野之乃を手招いて、土砂降りの中に彼を押し出した。よろけた彼はそのまま泥の中に滑って、うつぶせになっていた。雲の動きは早く、暗い色をしていた。「なぜ人間が未来のために苦しむ必要がある? 私たちはたとえ子孫が奇形に生まれることになっても放射エネルギーを使って今を生きるべきだ」
 雨の中に出て、手を貸してやる。しかし野之乃は顔をあげなかったので、手を貸されていることにも気づかなかった。
「そして、未来に醜い子孫と対面したとき、けっしてその顔を『醜い』とは言わずに、己の行いを『醜い』と悔いるんだ」
 彼はようやく顔をあげて、しばらくためらっていた。その間にも雨が降り続き、学ランのボタンから無限に雨粒が落ちていった。
「己がその環境を作ったときにしか、人は納得して生きることができない。納得できないことは外に歪みを生まないかわりに、内を変形させてしまう」
 野之乃は手を取った。そのまま引っ張り上げると、小男はたやすく持ち上がった。それぐらい、彼は無気力で、非協力的だったので、私は彼をその場に捨てた。
「ま、待ってください。ごめんなさい、許してください」
「おまえは本当に私と同じ中学一年生か? 甘えて引きずってもらおうとしただろう? 次にやったらおまえを小池に投げ落とすからな」
 このときの野之乃の言葉に言い表せない顔といったら、平常時でもグロテスクなのに、醜さダブル、あるいは醜さトリプルの泣きっ面で、雨がすべてを洗い流してくれるというのは嘘だと知った。不出来な顔の業は雨にすら囃し立てられる。
 人間の一生は、このような些細できれいな嘘を少しずつ引きはがしておぞましい本当を見つけてゆく作業で終わる。死が必ずラストフィナーレにやってくるのは、それが生命にとってもっとも知りたくない、困難だからである。本当とは困難のことだ。あらゆる物語に困難がないのはそのためだ。物語性が失われると読解が困難になるのは、それが現実に近いからだ。
 変な顔と名前で万年いじめられていた野之乃はいつも猫背で歩いていたので、よりいっそう近づきがたい様子になっていた。私はとぼとぼとひとりで帰る彼の背にタックルして一緒に帰ったものだ。「つまり、おまえはいじめっこの造形物だ」目を見開いた野之乃は「そうですか」と答えたあとで、急にしくしくと泣きはじめた。
「だったら僕は僕が嫌いです。跡形もなく消えてしまえばいいのに!」
 雨が降っていた。ここ最近はずっと雨が降っているが、彼は傘を折られるし、私は傘を持ち歩きもしなかった。
「なぜ雨が降ると思う? おまえが泣いているからだ」
「ひとりの心に合わせて雨が降るわけありません」
「どうしてだ? この世界はおまえが死んだら終わりなんだ。だから気分が晴れていたら雨も降らない」
「あなたこそ、どうしてそんなでたらめをはっきりと言えるんですか」
 私は野之乃の前に出て両手を広げた。雨で重い制服が、この時は羽のように軽かった。
「ならば私が傘を持たない理由を考えよ。答えは一つだ。今は、とてつもなく晴れている! ニュースで知りもしない世界の裏側の天気が、他人の心にもある。私は今、ひどいぐらいのお天気だ!」
 制服を干していると、野之乃から入電があった。電話番号を教えてから三週間がたっていた。妹が濡れた鞄を引きずったらしい廊下の痕をスリッパで消しながら私は座りこんで話を聞いた。
「さっきの話を聞いて思ったんですが、あなたはもしかして狂っているのではないかと」
「貧乏なおまえから金をせびっている奴らより、それを受容しているおまえより私が狂っているわけがない。私の狂気レベルが一ならおまえらは十だ」
「でも、さっき母から聞いたんですよ。あなたの話を……」
「他人の話はフィクションだ。いいか、中学一年生にもなって物語を信じてはいけない。勇気づけられたとか感動したとかも言ってはならない。小学生ではないのだから。私たちはもう大人だ。女をはらませることもできる。定規で線もうまくひけるし、ビリヤードもひけるし……」
「どうしたんですか、支離滅裂ですよ」
 翌日、そのまま廊下で眠ってしまった私はひどい風邪を引いた。たくさんの人が見舞いに来たが、多くの人は私のまぶたに水滴を乗せて帰っていった。することもないので、私は天井を見ながらに山と山を浮かべて、その間に虹をかけた。私の世界においては、どんなところにも虹をかけることができる。女教師の谷間にも男教師の尻にも。うとうとしていたところで、野之乃がやってきた。彼はみかんのゼリーをもってきていて、それを私の頭に乗せた。
「どうして雨に打たれたわけでもないのに風邪を引いたんですか」
「おまえが私を狂っていると言ったから、大嵐が吹いたのさ」
 野之乃はひどく感動したように私の手をつかんで「熱い」と言いながら「あなたの世界の造形を手伝ったというわけですね」と続けた。
 そんな初々しさも完全になくしてしまった目の前にいる野之乃は「青春は死ぬ」の続きを待っていた。が、私にはさらに思い出す必要がある。彼の制服に穴があけられてしまったとき、私は体操服姿で昇降口の傘立てに座って泣いている野之乃の頭を他人の置き傘で殴ったのだった。
「泣いている暇があったら、あいつらの制服を奪いに行こう」
「でも、そうしたら彼らが裸になるでしょう」
「世の中には裸になってよい人間がいる」
「彼らにとって、その裸になってよい人間がこの僕なんです」
 つねに吹雪く人生がこの世にはある。
 しかし人間の心はわからないので、そんなものが本当にあるかもわからない。
「裸になるべき人間が裸にならなければ、裸になってはいけない人間が裸になるんです」
 私は他人の傘を外に投げた。どいつも、こいつも、置き傘ばかりしてやがる。必要なときに取り出して、そうでもないときは邪魔ものだと放っておく。すべてが気に入らなかった。これは公共物で、公共物に世界を作ってはならない。私たちの出会う交差のターミナルによごれがあってはいけない。頭を押さえている野之乃の手をはがして、何度も頭をたたいた。私の手が赤くなる。野之乃が悲鳴を上げる。叩いても、叩いても、人の心は環境のようには変わってくれない。
「次、大雨が降ったら。あふれるぐらいの、土砂降りになったら」
 野之乃を殴ってすっきりとした私は、冴えた頭をフルに回転させるまでもなく言った。
「お金を渡すといって、あいつらを川に呼び寄せろ」

 ようやく意識が戻ってきたころには、三人も起きていて私の言葉を待ち望んでいた。顔を覗きこむ只野、ぺろぺろと私の頬をなめている犬、帰りたさそうだが状況的に帰りづらさそうにしている二年会計候補。
「私は正直言って、なにもかも後悔している。思い出すことは、いつも暗くて悲しくてどんよりとして長ったらしくて楽しくないことばかりだ。今はとても楽しかったじゃないか。おっと、過去形になってしまった。今は楽しい。まだ四月の三週目だが、只野のバカを見ているのは楽しかったし、野之乃は気持ち悪かったし、犬も意味がわからなくて面白かった。ああ、過去形だ。全部、過去形だ。だって、私は自分の過去をすべて知っている。過去を思い出せば、今のことだって笑えなくなる」
 雨が降り出した。最初はぽつぽつと、次第に強くなっていった。葉から大量の雨がこぼれて私を形作っていた七三は崩れてしまった。
「炎上商法? 馬鹿いえ。一度でも過ちを犯した人間は一生笑うことが許されないんだ。何度でも責め立てられ、あなたのせいで不快になった人物は今も苦しんでいるかもしれないんですよと言われる。そんなものは押しのけてしまえ? でも、ただ流れているだけの川が石の形を変えてしまうように、勢いはどんどんと流れこんで内面まで形作ってしまう。罪は消えない。罪は、生きている人間に残る」
 だから、と私は続けなかった。すべての人間が死ぬか、私が死ぬかの二択でしかこの困難は解決できない。困難には困難をぶつけよ。以前までは、すべての人間が死ぬべきだと思った。最近になって、私が死ぬべきだと思って死んでみた。今は……座っていた只野が立ち上がって、私の胸倉をつかんだ。
「よくわかんないけどよ、おれが過去形で面白い人間だなんて聞き捨てならねえよ。小学生のころからクラスで二番目に面白い子どもだって褒められてきたんだぞ」
「それはおまえの先生がそう言ったことで面白い子どもにならなければならないと内面化されて……」
「河童に尻子玉を抜かれたか? くわばらくわばら!」
 犬が胸倉をつかむ只野の手にかみついて、私の首に頭をこすりつけた。
「ワンワン、ワンワンワーン」
「何を言っているかよくわからない」
「くーん」
 犬を引きはがしてベンチに寝せてやると、いつの間にか鞄をもって靴を履きかえていた会計候補が私に頭を下げた。
「まあいろいろと頑張って。ばいばい、また明日」
「ああ、さようなら」
 彼の去る背を目で追っていると、野之乃のひどい顔が目の前に現れた。彼は私の手をつかんで「あなたのおっしゃることはいつも難解ですが」と前置きをした。
「とりあえず、生徒会長をやっつけることが先です。あなたの優れた知能と勇気があれば、きっとどんな困難にも打ち勝てます。さあ、全生徒を精通の喜びに震えさせましょう」
 急ごしらえでできた水たまりに顔をうつすと、そこには絶望した顔があった。
 雨はどんどんとひどくなり、私は目を開けるのもやっとになって三人を見た。
「おい、なんだ。まぶしそうにおれを見つめて」
「ワーン?」
「どうしたんですか、ここで立ち止まっているなんてあなたらしくないですよ!」
 私はメロンパンがあたったと言って、その場を去った。
 もう帰らないと思って、また明日とは言わなかった。

 カフカの書いた短編の、あの小説の終わり方を思い出すだけで鳥肌が立つ。
 風まで吹いてきて斜めに刺さる雨のせいで、前に進めない。後ろに戻ろうとしても、ぬかるんで踏みしめることができず、よろけてしまう。楽しい思い出を考えなければ、と私は考えている。
 つい数日前に、只野は女の子に告白をした。彼女は学校の近くにあるコンビニのアルバイトをしていて、告白した場所はまさにそのコンビニだった。カウンターにいる彼女に、只野はレシートの縦読みで「す」「き」「で」「す」の文字を作ったのだった。しかし、実際に印字された文字は「で」「き」「す」「す」だったので思いはちっとも伝わらなかった。コンビニを出た只野は慰めようとシャツをめくって腹を見せて踊る犬や「ひよこを液体にすると失われるものみたいな話ですね、恋心」と独り言ちていた野之乃を無視して、「よし」と大声を出した。
「おれは告白をできた。だからもう、いつ告白しようと悩むこともない。だからやってよかったんよ。これで次の恋ができる」
 告白されてもいない女の子は、こうして見知らぬ男子高校生の役に立って、彼の人格形成を手伝った。人生にはそういうことがよくある、あるが、私はそのことに耐えられなくなってきた。私の思い付き、カーテンを変えてみようという気分転換、今日は左から靴下を履こうかなという気まぐれ、外来種を放ちたいから外来種を放つという衝動によって、だれかの今に、私の行いが残っている。だれにも見せることなく好きだから書いている日記が全世界に公開されて記憶されふとした時に思い出される奇跡を美しいと泣けない。
 もはや私の後ろには川が続いている。豪雨が何もかもを決壊させ、嵐がだれかが一生懸命に築き上げてきた看板をぶち壊す! もう何も見えない暗闇の中を歩く! 前を歩いているかどうかも自信がない。
 ここは、きっと歩道橋だ。車道をまたいだ橋だ。本当ならこの下に車の川が流れている。多くの人が、理性を持っていることを前提に走っている。もしも自分ではなく環境を変えてみたいと願うひとりの狂人がその巨体を乗りまわすことを考えたら、人間は歩道橋しか使えない。なのに、人は歩道と横断歩道を歩く。見知らぬ他人の、死のうが生きようがどうでもいい他者の善意を信じている。
 しかし、そんな狂気はもはやどうでもいい話だ。なぜならすべてが、雨、雨、雨、ときどき下水で流されていて、欄干を超えてすぐにあるのはアスファルトでも車でもなく泥のような川だからだ。

 中学三年生の冬、高校デビューをしようと決めた。ある日、天啓がやってきて、それはソファに寝転がってテレビを観ていたときだった。赤いベロアに頬をこすりつけ、はみ出た足と足を交差させて、右の靴下がかろうじて指先にとどまっていた。黒と白の、しましまだった。コマーシャルが終わり、ニュースが再開された。飲酒運転の車に巻き込まれて、小さな女の子がなくなった。すぐそばには両親がいたという。彼らは怪我を負ったが、死ぬには至らなかった。ふだんの行いがよいからだろうか。子どもはなぜ死んだのだろうか。ふだんの行いが悪かったからだろうか。私は想像した。どこまでも想像することができた。昼の二時のこと。ごはんを食べ終えて、子どもは少し眠たくなっていたかもしれない。両親はそんな彼女を見て、もう帰りたくなっちゃったのと笑っていて、子どもは両親が笑っているところを見て笑っていた。夕飯は何にしようかと母親がいい、まだ早いでしょと父親がいった。今日買ったお洋服、早く着たいね。写真を撮ろうよ。服を買うたびにいちいち写真を撮る気? どうでもいい会話だった。だってそのあとすぐに死ぬと思っていなかったんだから、どうでもいい会話をしたって仕方ないじゃないか。

 心を入れかえて死んでも、私は私のままだった。次は身体を入れ替えて死んでみよう。
 川に身を投げようとしたとき、だれかが私の腕をつかんだ。そのままあがいて飛び込もうとしたところで、だれかが私の首にまきついた。もうどうにでもなれと欄干に乗り上げようとしたが、だれかが私の腰をつかんだ。
「何が悪いんです、あなたの何が悪いんです」
 雨でもはや手すりと空気の境もわからない。
「この世には、いつもより善いを望んではいけない人間がいる。変えたいと思うことが、すべて裏目にでる人間がいる。最初から、生まれるべきでなかった人間がいる。その人間のためにだれかが苦しむ。私は、憐憫を持つことができない。自分を自分で憐れむことができない」
「そんなことねえよ! どんな悪人だろうと、これから泥水しか啜れないやつだろうと、生きているだけでみじめでかわいそうで幸せだ!」
「ワンワンワン!」
 三人は私をひっくりかえした。雨がまっすぐに全身を打った! 息ができなくなるほど苦しかった。しかし三人は笑っていた。
「フハハハハハ!」
「えへ、へへ、へへ」
「ワッンワンッワン!」
 その笑い声を聞きながら寝そべっていると、やがて雲が散っていって次第に雨が弱くなった。
 どうでもいい会話のために、私は生かされてしまった。
 晴れた空の下、私たちは立ち上がって車の流れを見る。
 すると、一台の車が道を外れて歩道に乗り上げた。
 何もかもぶち壊されて台無しになる音がしても、まだ私の鼓動のほうが大きかった。
 カフカ。あなたの判決は、よくわからないし、これからもわからない。
 自殺するべき人間が自殺しなかったために、死んではいけない人間が死んだ。

 

履歴

2018年09月14日
完成
2019年01月13日
小説家になろう で公開
2019年01月13日
やわらかよだつ で公開

関連リンク

「小説家になろう」